彼は駒井の挙動をも不審なりとし、そのビール罎なるものをも珍しとして、馬上から問いかけました、
「何です、それは」
「西洋酒の罎です」
「イヤに黒い、下品なギヤマンですな」
と、一応は夷狄のものをケナしてみるのも、一つの癖かも知れません。
「西洋酒といっても、そう上等な酒ではありません、といって下等というわけでもないです、上下おしなべて飲みます、ビールというやつで、麦の酒です、麦酒《むぎざけ》です」
「ははあ、麦の酒ですか、麦の酒じゃ、熱燗《あつかん》にして飲むわけにゃあいきますまい」
と田山が言いました。
 それは、ビールというものが、燗をして飲む酒でないということを知って、そう言ったのではありません。
 酒というものは本来、米の精であればこそ、これに燗をして、キューッと咽喉《のんど》に下すことに趣味があるのだが、ばくばくたる麦ではうつりが悪い、ばくばくたる麦酒を、燗をして飲むなんぞは、あんまり気が利《き》かないと思ったものですから、偶然そんなことが口走ったのです。
「燗をして飲む酒じゃない、このまま飲むのだが、これは無論空罎です。これについて面白い話は、嘉永六年にペルリが浦賀へ来た時分、アメリカの水兵どもがこの中身を飲んで、空罎をポンポン海の中へ捨てたものです、それが、こんなあんばい[#「あんばい」に傍点]に海岸に流れつくと、浦賀あたりの役人がそれを見て、あれこそ毛唐《けとう》が毒を仕込んで、日本人を殺そうとの企《たくら》みで投げ込んだものだから、拾ってはならない、無断であの空罎を拾った者は、召捕りの上、重き罪に行うべしとあって、人を雇うて毎日流れついて来る無数の空罎を怖々《こわごわ》と拾わせ、これを空屋の中へ積込んで、厳重に戸締りをして置いたものだ」
と言いながら、駒井は丁寧にこれを拾い、懐紙を抜き出して周囲《まわり》の海水を拭い、大切にこちらへ持ち帰りますから、
「毛唐の飲みからしの空罎《あきびん》なんぞを拾って、何になさる」
「見給え――この通り、厳重に封がしてあって、口に符号がつけてある」
「それじゃ、まだ中身があるのですか」
「中身といっても酒じゃない、酒は飲んでしまって、その空罎を利用して、中へ合図をつめて海に流したものです」
「ははあ」
「海流の方向を知るために、或いは何か通信の目的で、そうでない時は、単なる好奇心で罎の中へ、何事かの合図、或いは通信
前へ 次へ
全64ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング