へ、へ、どうも」
 白雲から酌《しゃく》をしてもらって、恐縮しながら二杯三杯と飲んでしまう。その飲みっぷりが相当にものになっているから、白雲も面白いことに思い、
「時に、お前のその絆纏《はんてん》に染めてある仮名文字は、そりゃ何じゃ。さっきから、読み砕こうと思って再三苦心したが、どうもわからねえ、何のおまじないだい」
「へ、へ、へ、これでございますか」
 白雲が、さいぜんから気にしていたことの一つは、この若い者の背中に、仮名文字が一列に染め出されている。それは仮名文字だから、横文字と違って、読むに困難はないが、文句そのものが意味を成さないから、白雲ほどのものが思案に余っているらしい。
「これですけえ」
 若い船頭には、なまりと外行《よそゆき》の言葉とがチャンポンに出る。
「もっとよく、こちらを向いて見な」
「はい、はい」
 背中を向けると、若い船頭の印絆纏《しるしばんてん》――
[#ここから1字下げ]
「ゆききんのぶみよ」
[#ここで字下げ終わり]
と染めてある、片仮名にしてみれば、「ユキキンノブミヨ」となる。
 白雲はそれをながめながら、最初の通りに思案の首をひねる。どう判断しても、この一行の文字の意味がわからないらしい。
「へへ、へへ、これはね、旦那様、潮来の竹屋の女中さんの名で、こうして、わっしにみんなして、気を揃《そろ》えて、毎年一枚ずつくれるんでございますよ」
「なるほど、そうか」
 そこで、白雲が、これは「ユキキンノブミヨ」と一行に読んでしまうからいけない、ゆき、きん、のぶ、みよ、と四つにわけて、四人の名にして読めば、手もなく解釈がつくのだとさとりました。
 ところで、この若い船頭さんが、白雲に向って、これをきっかけに、よからぬ事をすすめる。
 よからぬ事というのは、どうです、旦那、これから潮来へおいでになって、菖蒲踊《あやめおど》りを御見物になりませんか――ということです。
 というのは、単に如才《じょさい》ないだけではなく、この提案が成功すれば、二重の役得があるという見込みが十分でしたから、御意によっては、鹿島へ行く舟のへさきを即座に変えて、潮来へじか[#「じか」に傍点]附けにして差上げますという、透《す》かさないかけひきを、白雲は頭から受けつけず、
「怪《け》しからん、神様へ参詣《さんけい》する前に、遊女屋へ行く奴があるか」
 これで一たまりもなく
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