をほどいてみたが、別段、深い冥想《めいそう》の底から、安祥として、現世の色界《しきかい》に戻って来たという足なみでもなく、そうかといって、退屈しきって、所在なさに、四肢の置き場と、顔面筋肉とを、無意味に変化させてみようというのでもない。動いてはじめて存在が知れたような透明な、しかし白濁な色を以て、ちょっと身動きをしてみたまでであります。
腕組みを解くと共に、ちょっとまた小手が動くと、するすると座右の刀が膝に上って来ました。
この人のは、刀を手にとるのではない、合図をすれば刀が膝に上って来るのです。ちょうど、乳を求むる子が、母の膝に本能的にはい寄るように――そこで刀が膝に上って来た時は、当然それに乳を与えねばなりません。
刀が膝へ上った時に、向うの襖《ふすま》の下へピグミーが現われました。
それは多分、弁信の前へ現われたピグミーと同一|眷族《けんぞく》のものに属するのでしょう。そうでなければ、全く同一物かも知れません。真黒な四肢五体に、長い帽子をかぶって、帽子もろともに、身のたけが一尺五寸には過ぎないでしょう。
ピグミーは必ずしも悪魔ではありませんが、よく悪魔の真似《まね》をしたがります。そうでしょう、それは聖賢や、英雄の真似をするよりは、どちらかといえば、その方がガラに合っているのです。だから孔子様も、女子と、ピグミーは養い難しと言う。
悪党がる者には、さほどの悪党はないように、ピグミーがピグミーである間は、単に、いたずら者で、悪魔としても、恐怖すべき悪魔ではないにきまっているが、扱いようによってはピグミーとても、悪魔がもたらすと同様程度に近いまでの恐怖を、持ち来すかも知れません。
「今晩は――大将、いやに暗いじゃありませんか、明りをつけて、景気よくやらかそうじゃありませんか」
ピグミーはこう言って、素早く身をおどらせると、早くも行燈《あんどん》の中へ、上からすっぽりと飛び込んでしまいました。
得たり賢し――多年、冷遇され、閑却され、虐待され、無視されていた角行燈子《かくあんどんし》は、時を得たりとばかり、パッとあらん限りの瞼《まぶた》を開きました。しかし不遇の角行燈子が、多年の逆境を脱して、一時に本能を逞しうするの機会を得たために、多少の衒気《げんき》と、我慢と、虚栄と、貪婪《どんらん》とが併出したと見えて、せっかくの光明に力がありません。光を強調せんとすればするほどに、人をして、一種の哀感を加えしむるに過ぎないほどの光明を、それでも行燈子自身は非常に得意がり、自己眩惑に酔うているようであります。かわいそうに、飢えたる者が酒を飲ませられて、それで腹が満ちたりと喜んでいる。それよりか悲痛にして、なお滑稽なのは、抜からぬ顔で行燈から出て来たピグミー先生で、得意の鼻をうごめかしながら、
「どうです、この方が、ズッと景気がよいじゃありませんか」
しかも、机竜之助は何とも答えません。
「先生」
ピグミーは、恐る恐る竜之助の膝の方に近よって来ました。極めて小さいから、顔面の神経はよくわからないが、その挙動によって見ると、何の事だ、人間界の卑怯者と、諂諛《てんゆ》の者とが得てして行いがちの、狡猾《こうかつ》な、細心な、そのくせ、妙に洒然《しゃぜん》として打解けたような物ごしで、膝の傍へ寄って来たが、刀の鞘《さや》の方から遠廻りをして、腰へ近づいたかと思うと、いきなり、刀の下げ緒の結び目を、両手でしっかりと抑えてしまい、
「エヘヘヘヘ」
と、薄気味悪い追従笑《ついしょうわら》いをしました。
「何だ、何をするのだ」
竜之助も、彼が挙動の卑劣さ加減に、呆《あき》れたものらしい。
「エヘヘヘヘ、おあぶのうございますよ、無暗にお抜きになってはいけません、ただ手入れをなさる分にはかまいませんが」
「あぶないと思ったら、そっちへ寄っていろ」
ピグミーを振り飛ばすと、竜之助の刀が、スルスルと鞘を出でました。
「さあ、事だ」
もんどり打ったピグミーは、一間ばかりかなたへ飛んで、そこへペタンとかしこまると、さも大仰な表情をして、両手をついたものです。
そんなものには取合わず、竜之助は刀を拭いはじめました。打粉《うちこ》をふって、例のやわらかな奉書の紙で、無雑作に二度三度拭うているのを、ピグミーは仔細らしくながめて、
「結構なものでございますな、お作は何でございますか、郷《ごう》ですか、なるほど、郷の義弘でございますか」
出しゃばり者め、問われもしないに知ったかぶり。
竜之助に取合われないものですからピグミーは、少しばかりテレたが、尺とり虫のように身を屈すると見れば、早くも刀の手もとまで飛び込んで、竜之助の柄《つか》を持っている左の手を足場にして、仔細らしく刀身の上をのぞき込み、
「ははあ、五《ぐ》の目《め》乱《みだ》れと来ていますね、悪い刀じゃありません、いや、どうして結構なものです、ちょっと、この類の程度はありません――誰ですか、相州の五郎入道正宗ですか」
仔細らしく、刃文《はもん》の匂いのところを見渡しているが、なおいっこう返事がないものですから、
「違いましたか、五郎入道正宗というところは当りませんか、当らずといえども当り同然のところまでは参りませんか、ただし釣合いはいかがですか、それとも否縁《いやすじ》でございますか」
ピグミーは、えっさっさ[#「えっさっさ」に傍点]をするような形をして、竜之助の手をゆすってみましたが、やはり返事がないものですから、
「まさか時代違いではございますまい、こう見えても、新刀と、古刀ぐらいの差別はわかりますからな――五郎入道正宗でなければ、越中国松倉の住人|右馬介《うまのすけ》義弘――というところはいかがです」
しきりに返答を迫るが、どうしても手答えがないものだから、ピグミーも、いよいよテレきってしまって、
「何とかおっしゃって下さいな、当りでなければ当り同然とか、否《いや》でなければ否縁《いやすじ》とか何とかおっしゃって下さらなければ、張合いがございません、相州の五郎入道でなければ、越中の松倉郷、こんなところはいかがです、やっぱりいけませんか」
ピグミーは、竜之助の小手の上で、足拍子を二つ三つ踏みながら、
「尤《もっと》も……郷と化け物は見たことがない、と人が言いますからな。松倉郷の義弘は享年《きょうねん》僅か二十七で亡くなりました、天成の名人でございます、玄人《くろうと》は正宗以上だと申しますよ。二十七歳で亡くなって、天下の名刀を残した人ですから、刀を打ちにこの世へ生れて来たようなものです、天才ですね、とてもたまらないものです。郷の義弘には、妙所が八カ所ありますが、それを御存じですか」
ピグミーは、竜之助の、まともに向き直って、彼を動かすに、天才の感激を以てしようとしましたが、その時、竜之助は、
「時代違いだよ」
と言いました。
「えッ」
ピグミーは、仰山な驚き方をして、
「五郎正宗でなければ、郷の義弘という見立ては違いましたか、当りませんか、否縁までも参りませんか、これは、びっくり敗亡」
ピグミーは、そこで刀の方に向き直って腕組みをしながら、しきりに地肌や、沸《にえ》の具合を、ながめ入りましたが、
「時代違いとは恐れ入りました、失礼ながら、もう一度、篤《とく》と拝見させていただきたいものです……ええと、長さは二尺二寸五分というところですか、片切刃《かたきりば》で大切先《おおきっさき》、無反《むぞり》に近い大板目《おおいため》で沸出来《にえでき》と来ていますね、誰が見ても、相州か、そうでなければ相州伝、これが時代違いとあっては惨憺たるものです」
ピグミーは苦心惨憺して、ついに刀の棟へのぼって、その上へ抱きつき、刀の地肌をペロリペロリと二度ばかりなめてみましたが、何かそこで、興に乗じたと見えて、両手で輪を描いて刀の棟にブラ下がり、
「ところで、斬れますかね、これは……切れ味はいかがです、斬りましたか、どんなものです、三ツ胴に土壇払《どたんばら》いというあたりへ行きました? むろん、最上大業《さいじょうおおわざ》でございましょうな。ところでどうです、生きた人間を斬ると、血がどっちへ飛ぶか、それがおわかりですか、斬った人の方へ飛ぶか、斬られた人の方へ飛ぶか……」
調子に乗ったピグミーは、刀の物打《ものうち》のところまで上って、身を以てからみついたから竜之助が、その刀を一振り振りました。
前にいう通り、ちょうど物打のところへ来て、ピグミーが抱きついて、かなり増長した語気を以て挑《いど》み立てたものですから、竜之助が軽くその刀を一振り振ると、
「あっ!」
といってピグミーが、二つになって、壁に向って飛びました。
見ると、正面の壁の面《おもて》に、蠑※[#「虫+原」、第3水準1−91−60]《いもり》を二つに斬ってはりつけたように、ピグミーの身体《からだ》が、胴から上と、下と、一尺ばかり間隔をおいて、二つになって、へばりついています。
はりついた当座は、ピクピクとして少しばかり動きましたけれど、そのまま寂然《じゃくねん》として、墨汁で点じたもののように、壁にくっついたきりです。
ちょうど、その時分、長い廊下で人の足音がしたようですから、竜之助はその足音に耳を傾けました。
廊下の足音は非常に緩慢なもので、且つ忍び足に違いないから、この場合、この人だから、それに耳を傾けたものでしょう。だが、たしかに人が忍んで来ると、こう感づいたのはぜひもないことです。と同時に竜之助は、それがお雪だなと思いました。
お雪が忍んで来て、ここで泣く――それは今宵に始まったことではない。
お雪の絶望に似た泣く音《ね》を、夢うつつの間に竜之助が聞くのも、耳新しいことではない。
その時、またしても、不意にピグミーが襲いかかって来ました。
これより先、二つに斬られて壁にへばりついていたピグミーが、またピクピクと動きはじめたと見れば、いつのまにかそれが一つになって、壁から真一文字に飛んで、再び刀の物打のところへしっかりとかじりつき、
「ね、足音がするでしょう、いつもの足音とは違いますよ、いつもの足音は、一筋にこの部屋へ向いて忍んで来たでしょう、今度のは、あれ、ああして、一間一間をのぞいて歩いて来ますよ、この三階だけでも三十幾間かあるでしょう、それをいちいちああして、忍び忍びに様子を見ながら、だんだんこちらへ近づいて来る者がありますよ、若い人です、男ですよ、刀を差しています、どのみち、やがてここへやって来ますよ、ここへ来たら事です、さあ、御用心なさい、御用心」
小うるさい! 再び竜之助が刀を振ると、ピグミーはまたも二つに斬られて、壁へ行ってヘバリつきました。
と同時に行燈《あんどん》が消えて、室は真の闇。
七
座敷が暗くなってから暫くして、短笛の音がこの一室から起りました。
「鈴慕《れいぼ》」を吹いているのです。
この部屋の調子というものが、どうも「鈴慕」を吹くにふさわしく出来ているのか知らん。
それとも、習い性となって、手を動かせば尺八が手にさわり、尺八を取れば「鈴慕」が唇頭に上り来るのかも知れません。
とにかく、竜之助はここで「鈴慕」を吹きはじめました。
この男が、竹を鳴らすことに、どれだけの慰安と、一如《いちにょ》とを、見出しているのだかそれはわかりません。
また好んで「鈴慕」を吹くといえども、「鈴慕」そのものの曲の示すところが何物であるか、それを味わいつつ吹くのでないことも勿論《もちろん》でしょう。いわゆる本曲について、見よう見まねのたしなみは持っているというこの男が、「虚霊《きょれい》」を吹かず「虚空《こくう》」を吹かず、好んで「鈴慕」を吹きたがるところから見れば、それは何か手ざわりがよくて、虫が好《す》くといったような、共鳴するところのものがあればこそだろうと思われます。
「虚霊」は天上の音《おん》、「虚空」は空中の音、「鈴慕」に至ってはじめて人間の音であります。
行けども行けども地上の旅を行く人間の哀音、そのいずれより来《きた》
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