う。何だか耳もとで茂太郎の声がするようでならぬ。
 その時、どっと下の方で笑い崩《くず》るる声がしました。ああ、そうそう、今日は珍しく鐙小屋《あぶみごや》の神主さんが来られたそうで、廊下で先ごろ北原さんから案内を受けたが、行く気にならないものだから御無沙汰《ごぶさた》をしてしまった。
 あの晴れ晴れした、賑やかな神主さんが、座持《ざもち》で話をしていれば、一座が陽気になるのも無理はない。ああして、さも愉快そうに笑い崩るる声。下の明るい賑やかさ。
 それを聞いて、いつもの自分ならば、駈けつけて行っても、仲間になりたいほどのものを、なんだか行きたい気が起らないのみならず、人々の笑い崩るるのが、どうやら呪《のろ》わしいような心持になって行く自分はどうしたものだろう。気が進まない。
 お雪は、晴れ晴れしい神主のことから、かえって暗い気持を、自分の胸に感得しました。
 ああ、いやいや、あの賑やかな神主さんを思うと、その裏には、あの死神にとりつかれた浅吉さんのことを思う。締め殺しても死にそうもなかったイヤなおばさんのことを思う。その二人のいずれもが、なんとも原因不明な死様《しにざま》をしてしまった。死んだとは思われない。ことに、あのイヤなおばさん、はちきれるほど脂《あぶら》たっぷりなおばさんが、もろくも魂《こん》に引かれ死んでしまった。あの神主さんこそは、その二人の陰気とけがれとを、極力払いのけようと、忠告もしたり、手きびしいお祓《はら》いもしたりしたのを、お雪はよく知っている。
 けがれは「気枯《けがれ》」である。陽気が枯れるところに罪悪が宿る、罪悪の宿るところに死が見舞う――とは、常々聞かされたあの神主さんのお説教の論法である。
 今のわたしは、その通りに、陽気が日に日に枯れて、陰気が時々刻々に加わってゆくのではないか――明るいところを厭うようになる時は、暗いのを好みはじめる時である。たまらない。お雪は目がくらくらとしました。

         十

 宇津木兵馬は、ひとり温泉の中に仰向けになって悠々《ゆうゆう》と浸って、恍然《うっとり》と物を考えているところへ、不意に後光がころげ込んで来ました。
 なんという賑々《にぎにぎ》しい人だろう。人間としては、たった一人が入り込んで来たのに過ぎないが、四方がパッと明るくなるほどに陽気になりました。
 兵馬も知らない、入って来た方も知らないが、これは鐙小屋《あぶみごや》の神主さんです。
 鐙小屋の神主さんは、たった今、炉辺の閑談を済まして、いち早く、ひとりこの風呂に飛び込んで来たものと見えます。
 お雪が二階で聞いた、どっと笑い崩るる音というのは、この陽気な神主さんが、何か一席の座談の終りに愛嬌《あいきょう》ある落ちをつけて、それが、すべての人のおとがいを解いたその結果でありましょう。
 先入りの客がいたと見て、神主さんから言葉をかけました、
「おやおや、あんたお一人で、そこにおいでかい。いつ来てもこのお湯はいいお湯じゃの、よくまあ透明に澄んでおりますわいの。これまあ、玉のこぼるるようじゃ、勿体《もったい》ないほどじゃ」
と言いながら兵馬と向い合って、ズブリと全身を湯の中に打込みました。
「白骨と申しますが全く骨まで白く洗えそうな湯ですな」
と兵馬が、おとなしく言うのを、
「その通り、その通り、ほんに綺麗《きれい》でいい加減で、それに今は混む時のようにさわがしくはないし、お湯に入る気持は格別だが、若衆《わかいしゅ》さま、修行は湯ではいけませんぞ、水に限りますぞ」
と、その人が言い出したものですから、この男を神主とも、行者とも知らない兵馬は、変なことを言う人だと思いました。
「修行は水に限ったものです、厳寒に、氷を割って浴びる水の温かさを知ったものでなければ、修行の味は話せませんよ」
 神主がいうのを、兵馬は軽く、
「そうですかなあ」
と受けたままです。ところが神主は面《かお》だけは洗わないで、ゴシゴシ身体《からだ》を湯の中でこすりながら、
「万事、水で修行をしなければいけません。しかし、それもまあ身体に準じたもので、無茶に荒行《あらぎょう》をやるのも感心しませんな。あんた方なんぞはまだ若いで、少しぐらい無理をしても修行が肝腎《かんじん》ですな。水行と断食のことですよ、水行と断食をしっかりやっとらんことにゃ、身体の本当の鍛えはできませんわい」
 兵馬はそれを聞いて、ますます変だと思いました。この男は人を見かけに頭から説法する人だ、その説教を独断的に頭から押しつける人だ、ははあ、この山中に来ている行者の類《たぐい》だな――と兵馬は、そう気がついたものですから反問しました、
「もう永く、こちらに御逗留《ごとうりゅう》ですか」
「長いといえば長うがすな、この乗鞍の麓《ふもと》に落ちついてから二十年に
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