そうだ、それに違いない、いま、来たのは、あれはあの娘さんだ、この宿の冬籠りのうちで、たった一人の女性、たった一人ではあるが、女性の最もよいところを多分に備えているらしいあの若い娘さんだ。
誰もいないと安心して来て見ると、意外にも自分というものが隠れていたから、それで急に恥かしくなって引返したのだろう、そうだとすれば気の毒なことだ、だが、こういった山奥の温泉宿で、それはあんまり遠慮が深過ぎはしないか。
なにも、ここへ入って来たとて、恥かしがるがものもありはすまいに、しおらしい遠慮だと、兵馬はまたかえって、それを微笑みました。
兵馬の推察は、半分は当っているが、あとの半分――どんな心持でその娘が急に立去ったかは、全くわかろうはずがありません。
お雪のこの心づかいは、賢明なものでありました。
それは、自分たちとしては、誰に逢っても、誰と話をしても、さらに後ろめたいことは無いけれども、自分たちの連れには、人に知られていいか、悪いかわからない人がいる。当人も人には逢いたがらないし、自分たちも人に会わせたくないと思う人がいる。
湯治に来たとはいうものの、実はその人を隠さんがために、はるばるこの白骨の山間《やまあい》まで来たというような結果になっている。
その人は、ことさらに逃げ隠れるという卑怯な振舞はないが、陽《ひ》の目、人の目を、避けることを好んでいるらしく、また、おのずから、それを避けるように出来ている。
お雪は、その人が、こうなるまでの来歴を知らない。知りたいとも思うが、そこを掘ると底知れない暗やみの穴が現われて、自分がその中にまき込まれるように思うから、怖《こわ》くてその蓋《ふた》があけられないような心持でいる。
しかし、その人の魂には、あらゆる創《きず》がついて、そこから血が滲《にじ》み出ているのを、まざまざと見せられる。
容易ならぬ罪業《ざいごう》の人である。
男というものは、閾《しきい》を跨《また》げば七人の敵があるものだという話だが、この人の敵は、七人や八人ではあるまい。
それはどこに、どういう敵を持っているのだかわからないけれども、どのみち、誰にも知られないうちに、あの満身の病根に療養を加えさせて上げたいという、暗示的に来る同情心が、この際、お雪の逸《はや》る心を抑えて、そうして、飛び立つほどに名乗りかけてもみたかった兵馬に対して、一言も言いませんでした。
一言も言わないのみならず、先方でまだ気がつかないでいるのを幸い、自分も、あの人の帰るまで、姿を見せないでいるのが分別《ふんべつ》だと心を決めてしまったのは、全く聡明な思いやりでありました。
無論、お雪は、二人の間の執拗《しつよう》なる葛藤《かっとう》を、少しも知っているのではない。
ただ、こちらは隠れている人、隠れないまでも、人に会わせたくも、逢いたくもない人であるのに、先方は、今時分、こうして、この山奥まで、雪を冒《おか》して、入り込んで来る以上は、それは徒《いたず》らに紛《まぎ》れ込んだと思われない、道に迷うたともいわれない、何か目的があり、何か尋ね求めんとするものがあればこそ、この時分、このところへ、わざわざ足を踏み入れたものに相違ない。
もしや、心安立《こころやすだ》てに面《かお》を合わせることが緒《いとぐち》となって、退引《のっぴき》ならぬこんがらかりに導いた日には、取っても返らないではないか。
あの若い方は、素直な方であるし、自分にとっては、危うきを救われた恩人である。この場合、知って知らないふりをするのはつらいけれど、思い合わせてみると、その時分から、何かを尋ね尋ねて歩み疲れていた人のようではあった。
それに気味の悪いあの二人連れの壮士。どちらにしても、会わせないがよい、会わないがよい、というお雪の心づかいは、聡明でした。
しかるに、この聡明なお雪の心づくしを知るや知らずや、その宵に至ると、例の座敷で、竹調べがはじまり、ついで「鈴慕《れいぼ》」の響きが起りました。
お雪は、それを聞くと、今晩はあらずもがなだと思いました。
せめて、あの笛の音が、今いう新来の客人たち、つまり、さいぜんの若い旅のさむらいの人と、それから、どう考えても気味の悪い二人連れの壮士とにだけは、あの笛の音を気取《けど》らせたくないという心が無性《むしょう》にお雪の胸にのぼります。あの笛の音、そこから自分の心づくしがふいになるようではたまらぬ。
お雪は、その尺八の音に気を揉《も》みましたけれど、尺八の音は、お雪の苦心に頓着なく、冷々亮々《れいれいりょうりょう》として響き渡ります。
影は隠せば隠せるが、音というものは、隠して隠すわけにはゆかないらしい。
その尺八の音を聞いた時に、あちらの室にいた仏頂寺弥助が、耳を蔽《おお》うて畳の上に突ッ伏
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