い」
お雪は、竜之助が棒の如く立って、凝視《ぎょうし》している、その越中の剣《つるぎ》ヶ岳《たけ》の半面に向って、同じように、凝視の眼を立てました。
「見えるだろう、そら、あの頂上に」
「何も見えません」
「おかしいな、よく見てごらん、頂上に錫杖《しゃくじょう》が立っている」
「え、錫杖が、あのお山の頂上に?」
「そうさ、ただ一本の錫杖が、絶頂の岩石の間に、突き立ててあるのが、お前には見えないのかなあ」
「少しも見えません、また見えるはずもございませんもの」
「だから、わしの眼が今日はどうかしているのだろう、こっちの眼では、ありありとわかるものが、お前の眼に少しも見えないとは……だが確かに錫杖が一本、あの剣ヶ岳の上に立っている。錫杖が存する上は、それを立てた人間がなければなるまい。人間がそれを立てたとすれば、古来、人跡至らずといわれた伝説は嘘だ……」
しかしながら、これは物争いになりませんでした。一方が見えるというものを、一方が全く見えないというのですから、議論になりません。
「ああ、お月様が出ました、新月が……何という、いじらしい光でしょう。ですけれども、また触れば切れそうなあの鋭さと、冷たさ。わたしは、お月様のうちで、あの二日月がいちばん好きでございます」
お雪の眼は、山から月にうつりました。
なるほど、立山の連峰から、加賀の白山へつづくと覚しいところに、新月の影があります。
金色《こんじき》の、聖者の最期《さいご》を彩る荘厳《そうごん》に沈んだ山と、空との境目が、その金色の荘厳を失って、橙《だいだい》の黄なるに変りました。
その間に繊々《せんせん》としてかかる新月の美しさ。そうして、微かなるその新月の光に向いた山の峰が、涙の露を糸に引いたようなカーヴをかけているいじらしさ。
だが、その美しさも、いじらしさも、束《つか》の間《ま》で、橙の黄なる空の色が、白蝋《はくろう》の白きに変る時分に、山々は一様に黒くなりました。
一様に黒くはなったけれども、少しもその個性を失うのではない。槍は槍のように、穂高は穂高のように、乗鞍は乗鞍のように、駒ヶ岳は駒ヶ岳のように、焼ヶ岳は焼ヶ岳のように、赤石の連脈は赤石の連脈のように、八ヶ岳の一族は八ヶ岳の一族のように、富士は問題の外であるが、越中の立山は立山のように、加賀の白山は加賀の白山のように――展望において、やや
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