そうかも知れない」
「ただ、眺めておいでになっただけでは、さだめて物足りないことと存じます、御案内を致して上げましょうか」
 お雪はその銀の柄杓を取り直して、竜之助の当面、南の方にそそり立つ山の一つをさして、
「あれが槍でございます」
「ははあ」
「その次が穂高!」
「ははあ」
「穂高の向うの大きなのが乗鞍ヶ岳でございます、わたしたちのおりまする白骨温泉の真上に、あの山がかぶさっておりまする。それから、あの槍と、穂高との間に、煙の上っているのがお見えになりますかしら」
「見える、見える」
「あれが焼ヶ岳の煙でございます、ほかほかの山々は、みんな眠っておりますけれど、あの焼ヶ岳一つが煙を吐いておりまする」
「なるほど」
「駒ヶ岳が、お見えになりましょう」
「どれ?」
「富士山と、赤石と、八ヶ岳とが、遠くかすんでおりまするそのこちらに」
「うむ、なるほど」
「あのお山に昔、天津速駒《あまつはやごま》という勇敢なる白馬が棲《す》んでおりました、それは武甕槌《たけみかずち》という神様の魂から生れた馬だそうでございます、双《そう》の肩に銀の翼が生えていて空中をかけめぐり、夜になると、あの駒ヶ岳の頂上で寝《やす》むのだそうでございます」
「なるほど」
「それから、あの乗鞍ヶ岳には、天安鞍《あめのやすくら》というのがあったそうでございます、その鞍を馬につけて乗れば、どんな馬からでも、落ちることがないと申します」
「うむ」
「槍ヶ岳には、天日矛《あめのひほこ》というのがございました、その矛先は常に盛んなる炎に燃えていたそうでございます」
「ははあ」
「それから越中の立山《たてやま》――ごらんなさい、あの雄大な、あの険峻《けんしゅん》な一脈が、あれが立山連峰でございます。立山の上には、天広楯《あめのひろたて》というのがございました、敵にその楯を向けると、敵の大小によって、楯が伸び縮みをするという楯でございます……」
「お雪ちゃん、お前は何でもよく知っていますね」
「わたしが、そんなに物識《ものし》りなのではございません、みんな白骨温泉の炉辺閑話の受売りでございますから、買いかぶらないように、お聞き下さいましよ」
 ここで、今までは、神仙化されていた娘の生《しょう》の姿が、ちょっとひらめいたので、あぶなく現実に帰ろうとした竜之助の眼が、立山連峰の一つの、最も鋭く、最も険峻なるものに、ひ
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