花の色。
「これが深山薄雪《みやまうすゆき》っていうんでしょう」
 お雪はその一つを摘《つ》み取って、自分の唇につけながら、
「この信濃の国のうちでも、お花畑のいちばん美しい山は白馬ヶ岳だそうでございます、それはいちばん北の方にあるから雪が多く、雪が多いから地面にうるおいが出て、うるおいがあるから、こうした植物が好んで棲《す》むのだと、山の案内の方が教えてくれました。全くその通りと思いますわ。あなたは久しく物の色というものをごらんになりませんね、ですから、しっかりとこの深い色、汚れのない色をごらんあそばせ、そうして、花の名もよく覚えていて下さいな、深山薄雪といって、わたしの名と同じことなんです」
 その花を、竜之助の眼の先につきつけました。
 真正に、清浄な紫の色、この色が下界の花には無いと、竜之助も思いました。
「あれ、蝶が……」
とお雪は山吹のような金色の花模様の中に、ヒラヒラと舞う白い蝶を捉《とら》えようとして、浅瀬に裳《も》をとられたように引返し、
「深山白蝶《みやまはくちょう》というのが、あれかも知れません」
 信濃ギンバイの黄金の中に、深山白蝶の色。
 蝶を追うて、二人は静かに上りにかかると、花をいくつも摘んで胸にかかえたお雪が、行手の山を指さして、
「白馬の頂《いただき》が見えました」
「なるほど」
 その山嶺を仰ぎ見ますと、真白な雪が、身ぶるいしているのを認めました。
「裏の国では、あれを大蓮華山《だいれんげさん》と申します、こちらではシロウマと申します、それを、今では誰が言いならわしたか、ハクバヶ岳《たけ》が通り名になってしまいました」
 お花畑を出でると、雪の渓間《たにま》がある、林泉がある、見慣れない獣《けもの》が、きょとんとして、こちらを向いている。
「あれが羚羊《かもしか》です、あの獣は赤いものが好きで、赤いものさえ見せれば半日でも見ています」
 お雪は帯の間から、これも目のさめるほどな紅絹《もみ》の布片《ぬのきれ》を取り出して、その獣に向って振ると、眼をクルクルして、いつまでもそれを見ている。
「ああして、これを恐れないのは、人を信じているからでしょう、あぶないものですね」
 少し進んで行くと、偃松《はいまつ》の間から、のそのそと一羽の鳥が出て来る。
「ごらんなさい、雷鳥が出て来ましたよ、あの鳥もまた人を怖れません」
 やがて頂上に近くな
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