ら、それで、わたしの夢もついつい、山のことになってしまうんじゃないかと思います。けれども怖い夢や、イヤな夢を見るより、山の夢を見る方が、どのくらい楽しいか知れません。それは山へ登りたいと思いながら、登れないものですから、よけい、夢になりたがるんでしょうと思います――わたしの見た山の夢を、話して上げましょうか」
山の話が讖《しん》をなしたものか、お雪の雄弁――熱を以て語る山のあこがれが、竜之助の頭脳のうちに絵のような印象を植えつけたものか、その夜、竜之助は、雪を頂く高峰のめぐるある地点に立つところの自分を発見しました。
銀のような山上の雪のまばゆきに映りあって、その空の碧《みどり》のまたなんというめざましいことだろう。人の魂を吸いこむほどの碧の色、こうもまあ冴《さ》えた色があり得るものかと思いました。
有らん限りの自分の視力を払って、竜之助は高峰の山々をながめました。
その山々の名は先刻、いちいちお雪から指さして教えられたはずであったが、今は茫洋として覚えておりません。名の記憶は茫洋に帰してしまったが、自分の放つ視力のめざましさは、疑おうとしても、疑うわけにはゆきません。
遠近も、高低も、カーブも、スロープも、心ゆくばかり明快にうつるのみではない、雪に照り映《は》えている自分の一枚の白衣《びゃくえ》が、鶴の羽のようにかがやくのを認めました。
どうして、この時、一枚の白衣で寒くないのだろう。寒くないのみならず、何ともいえない軽快なすがすがしさ。自分の四肢五体までがすっかり、この鶴の羽のように、さえ返っているのではないかと疑いました。
彼が眼の不自由を感ずるのは、その醒《さ》めている時だけであります。
多くの人が日の光のめぐみに浴する時こそ、彼は肉眼も、心も、全くの暗黒で、世の人が光を隠されて暗黒の眠りにつく時に、彼に自由の天地があり、どうかすると、赫々《かくかく》たる光に眩惑《げんわく》されることもある。
しかしながら、この夜の自由は、その以前の夜の自由とは、少しく性質を異にしてきたようです。何よりもまず夢の世界に立つ時、未《いま》だひとたびも、自分の視力を疑ったことのないのが幸いといえば幸いでしょう。
とはいえ、雪をいただく大山脈を長城にして、めざましい空の碧《みどり》の色を、こうもあざやかに見たのは、今がそのはじめです。
「ここが有名な白馬《は
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