もとめてもらった以上は、わたしというものがこのお座敷の御主人なんだから、誰にも遠慮はいらない、片づけて下さい」
「それでも、あれほど頼んでおいでになったのに……」
「くどいねえ、誰が頼んだか知らないが、癇《かん》のせいで、雄猫一匹でも、男と名のつくやつを膝の上に乗せないお角さんだよ、けがらわしい!」
といってお角は、手をのべて蒲団の上の男枕をとるや、力任せに座敷の外へ抛《ほう》り出してしまいました。
 そこで、男物のいっさいがっさいをおっぽり出して、いささか溜飲を下げ、お角は床についたが、まだなんだか癪に残るようなものがあって、蒲団から首を出して煙草をのんでおりました。
 はてな――この間違いは、間違いとすれば、ばかばかしい間違いだが、いたずらとすれば、かなり念の入ったいたずらだ。お角は癇癪《かんしゃく》半ばに、ふいとこのことを気にしていたのですが、煙草を一ぷくのんでいるうちに気が廻って、ははあ――と、灰吹に雁首《がんくび》をかなり手荒くはたいたものです。
 油断が出来ないぞ――それそれ、今日も七里の道中で、誰となく注意をしてくれたものがある。
 胡麻《ごま》の蠅《はえ》がついたから御用心をなさい、と。
 胡麻の蠅という奴は、見込んだ相手が笠を捨てるまで離れない。こいつは通り一ぺんに腹を立てっぱなしではいられないぞ。お角だけに、気がついて、ほほえみ、急に室内を見廻してみたが、別に異状はありません。
 ふふん、目先の利《き》かない胡麻の蠅だ、人を見て物を言っておくれ、というような面《かお》つきで、嘲笑を鼻の先にぶらさげて、お角は、さて仰向けに寝返りを打って、眠りにとりかかろうとした途端に、夜具の襟でチクリと頬を突かれたものだから、見ると、不思議千万にも、珊瑚《さんご》の五分玉の銀の簪《かんざし》が、夜具の襟の縫目にグッと横に突きさしてあって、その一端が自分の頬ぺたを突いたことを知りました。
 何だい、今日はいやに、小間物でおどかされる晩だ――お角は、その五分玉の銀の簪を、夜具の襟から引きぬいて、じっと枕行燈《まくらあんどん》の光で、仰向けになりながらながめると、どうも覚えがあるようだ。見たことのあるような簪であります。
 わかった、これですっかりお里が知れちゃった。がんりき[#「がんりき」に傍点]だ、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵だ、これは百のいたずらだよ。
 そんなら、それでいいじゃないか。つまらない、ふざけた、子供じみたいたずらをして見せたものだ。ばかばかしい。お角が再び呆《あき》れ返って、せせら笑いました。
 胡麻の蠅というのは、つまり百の野郎だ。百の野郎が、熱海あたりから、くっついて来ているのだ。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵ならば、何だって、こんな、しみったれたいたずら[#「いたずら」に傍点]をするのだ。
 お角は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の、甚《はなは》だけち[#「けち」に傍点]な野郎であることを、あざけってみましたけれども、もう少し同情して、思いやってみると、これには、また相当の仕立てがあるかも知れない。
 奴、何か人目が忙しいものだから、遠廻しに附いては来ているが、大びらでは立寄れないのだろう。明らさまには、それといって話もいいかけられないのだろう。つまりあいつの身の忙しいのも、今にはじまったことではないが、その忙しさも、世間晴れての忙しさでないことも、大抵はお察し申している。
 それでさとれよがしに、こんないたずらをしての思わせぶりだ。
 そうだとすれば、笑ってやりたいくらいのものだが、それにしても、やり方がしみったれていると、お角は、やはりあざ笑いを掻《か》き消すわけにはゆかない。
 お角としては、この頃中、とかく、がんりき[#「がんりき」に傍点]が焼きもちを焼きたがるのに、うんざりしないでもありません。
 思い出してみると、あんな男と一時腐れ合ったのは、お角さん一代の不覚だといわれないこともない。あの時、あんなに熱くなったのは、いま考えてみるとお恥かしい。あれは、一つはお絹という大の虫の好かない女と、意気張りのような具合になったから、それで、まあ、ああものぼせて甲州くんだりまで、追いかけてみたというような役廻りではあったが、冷めてみればばかばかしくって、お話にならないという感じがする。
 それにあの時は、本職の方を少し休んで、閑散な身であったから、そこへ多少、魔がさしたのか知れないが、今は痩《や》せても枯れても、一本立ちのお角さんだ。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴、その時分とは、こっちの歯ごたえが少し違うものだから、やきもきしている。
 だが、あいつも、あいつだけに、意地の張った男だから、ことに、いつも色男一手専売の気取りで、女ひでりはないような面《つら》をしてるだけに、引け目を見せないところが、可愛いといえば可愛いところだ。ことにその引け目を見せない結び目から、やきもち[#「やきもち」に傍点]がころがり出すなんぞは、いっそう可愛らしいところだ――と、お角がにやりと、小気味のよかりそうな思出し笑いをする。
 なるほど、それはその通りで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎、女には飢えていない面をしていながら、やきもち[#「やきもち」に傍点]を焼きたがるものだから、お角から、こう見くびられても仕方のない理由はある。
 お角がことに笑止がっているのは、お角と、駒井甚三郎との間を、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、ひどく疑ぐっている。お角は海山千年の代物《しろもの》だし、駒井はああ見えて、あれでなかなかのろい[#「のろい」に傍点]殿様だから、内実はどんなふうにもつれ合っているのだか、その辺は知れたものでない。
 秘密というものは、一つ疑えば、いくつも疑えるものだから、その辺から、がんりき[#「がんりき」に傍点]がいい心持をしていないらしく、時々、両国の控え宅へおとずれて見える時も、どうも気がさして、なんだか、自分のほかに先客がありはしないかとさえ、気が置かれる――その神経が少し尖《とが》り過ぎて、先日は田山白雲に於て見事に失敗した。
 こいつは色男じゃねえ――とばかばかしくもあったり、ホッと胸を撫で下ろしてみたりしたのは、ついこのお角の留守中のことだから、それはお角の知ろう由もないが、とにかく、がんりき[#「がんりき」に傍点]が自分に対してやきもち[#「やきもち」に傍点]を焼いているということが、お角をして、多少得意がらせていることは確かです。どうです、わたしの方が役者が一枚上でしょう――といったような優越感が、この女の負けず嫌いを満足させて、悪い心持にはさせていないようです。
 この辺で止まっていればよかったのですが――お角も、女だけに、もう一歩進んだのがよくありません。つまり、こちらの強味に乗じて、先方の弱気をからかってやろうという気になったのです。どっちみち、こうなると――それは、そそっかしい女中の間違いだか、果して、がんりき[#「がんりき」に傍点]のいたずらだか、どちらだか、まだしかと突きとめた次第ではないが、お角はもうそうに違いないときめてしまって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の奴、いつもの伝で、夜中時分に忍んで来て、いやがらせをやるにきまっている。もしかした差しさわりで、今晩来なければ明日、つまり江戸へ着くまでの間には必ず、何か皮肉な仕打ちで現われて来るに相違ない。
 してみれば、それに対するの応戦計画として、こちらにも了見がなければならないと、意地張り出したのがよけいなことです。
 お角は、その晩、どうしてやろうかと思いました。
 向うの、いたずらの裏を行って、こっちがほかの男と枕を並べて見せて、忍んで来た奴の立場を失わせたら、痛快だろう――だが、差当って、その相手に選ぶべき役者がない。
 ともにつれて来た若いのなんぞを使ってみたのでは、子供だましにもならない。
 お角の、いたずら心が挑発されて、せっかくのことに、がんりき[#「がんりき」に傍点]のために、思いきった濃厚な当てっぷりを見せてやろうと、むらむらしたが、どう考えてもこの場合、相手に選ぶべき役者がない。
 そうこうしているうちに、踏み込まれでもした日には、台なしだ。こいつは一番――どうしてくれよう。この際、早急に、ふざけたいたずら[#「いたずら」に傍点]者に閨《ねや》の外で立場を失わせ、今後をきっと慎《つつし》ませるような手きびしい狂言はないものか――この、さし当っての狂言の選択には、お角もてこずってみたが、とうとう名案が浮ばず、旅の疲れがおっかぶさって、ついうとうとと夢に入ると間もなく熟睡に落ちて、眼をさました時分には、夜が明けていました。
 全く無事で、がんりき[#「がんりき」に傍点]のが[#「が」に傍点]の字も聞えず、今日もいい天気で、障子の外に老梅の影が、かんかんとうつっている。

         十

 果して、お角の想像にたがわず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、たしかに小田原の町へ乗込んでいて、お角がまだ床を離れない時分に、早くも八棟《やむね》の外郎《ういろう》に、すました面《かお》で姿を見せたのがそれです。
 この男が、南条、五十嵐の手先となって、案内者ぶりをしているのは、今にはじまったことではないが、このごろでは、どうやら山崎譲の方とも妥協が出来て、ずいぶん、その方の御用もつとめているらしい。
 当人は、のほほんで、両方のお役に立ち、その間に自慢の女漁《おんなあさ》りと、旨《うま》い汁を吸うつもりでいるらしいが、相手が相手だから、いつまでも、そんな虫のいい商売が続くものではなかろうが、こっちもこっちだから、いいかげんにタカをくくっているものらしい。
 何のつもりか、外郎《ういろう》を二丁買い込んで、それを胴巻の中へ、しまおうとする途端に、店頭《みせさき》の一方から不意に、
「御用!」
 当人にとっては、お約束のような掛声で、やにわに組みついて来たのを、そこは心得たとばかり、体《たい》を沈めると、組みついた手が外《はず》れるのをキッカケに、するりとすり抜けて、表へ飛び出したのは型のような鮮かさで、それから後は得意の駈足です。
 御用の声が、二三人、透《す》かさずそのあとを追っかけて、小田原の町の朝景色を掻《か》き乱す。
 当人は心得きっているのだから、ここを逃げるのは、それこそ本当の朝飯前だ。山谷《さんや》や袋町の行詰りとは違い、四通八達の小田原城下を、小路小路まで案内知った常壇場《じょうだんば》のようなものだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]としては、子供相手に鬼ごっこして楽しむようなものかも知れないが、大手通りの町角で、また不意に飛び出した、
「御用!」
の声に面食《めんくら》って、
「こいつは、いけねえ」
 敵に用意のあることを知ったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、ここで真剣になりました。寄手《よせて》はもう、ちゃんと手筈をきめて、つまり非常線を張って自分を待ちかけているのだ。それを悟らずに、甘く見てかかったのは手落ちだ。この分では、袋の鼠にされちまっている。
「ちぇッ、ドジを踏んじまった」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、自分をたのむだけに、相当に敵をも知っている。たとえ行止りであろうとも、一方から追われる分にはなんでもないが、白昼、しかも城下町で、非常線を張って包まれた分には、たまるまいではないか。何だって、外郎なんぞを買いに出たんだろう。いよいよおれもヤキが廻ったかなと、歯がみをしたが、やはり同じように、御用の手先をスリ抜けて、真直ぐに走ると大手門の前へ出る。ますますいけない。引返そうとすればさいぜんのが追いかけて来る。ままよ――横っ飛びに飛んで、侍町の生垣《いけがき》の下を鼠のように走ると、御用の声を聞き伝えた家並《いえなみ》が騒ぎ出す。
 夜ならば、身をくらます手段はいくらもあるのだが、こうなっては、どうも仕方がない。屋根へも上れず、井戸へも飛び込めない。突当り路地へでも追いつめられて、ギュウの音も立てず、名も無き敵に首を掻《
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