べかわ》をこしらえて、あなたに差上げようという気になったものですから、つい……」
といって、お雪ちゃんは、片手には縫取りをかかえ込み、片手にはお盆に載せた安倍川をどっさり持って来たものです。
「一つ召上れ」
「これは御馳走さま」
竜之助は起き上りました。
そこで、炬燵櫓《こたつやぐら》の上で、二人はお取膳《とりぜん》の形で、安倍川を食べにかかりました。
竜之助は、これは無邪気なものだと思いました。これが、「何もございませんが、一口《ひとくち》召上れな」と言って、お銚子《ちょうし》と洗肉《あらい》をつきつけられたところで、いやな気持はしないが、わざわざ安倍川をこしらえて来て食べさせるところが、お雪ちゃんらしいなと、竜之助も人間並みに、その御馳走が有難く見えたのでしょう。
二人はこうして、さし向いで安倍川を食べながら、お雪ちゃんが、しかけて置いた鉄瓶の湯を急須《きゅうす》に注ぎました。
安倍川を食べてしまうと、お雪ちゃんは縫取りを取り出して、例の胡蝶の模様を余念なく縫い取りにかかりました。
その時分とても、下の三味線はいよいよ興に乗るので、針を運ぶお雪ちゃんの気もときめいて、
「池田先生のお弟子さんには、芸人がいらっしゃるわ――ずいぶん御熱心ね」
といって、自分も針を運びながら、その三味線の音色には聞き惚《ほ》れているらしい。
机竜之助は、もう横にならないで、やぐらの上に頬杖をついたまま、キチンと坐って、沈黙しているのは御同然に、三味線の音色そのものに、暫しわれを忘るるの余裕を与えられているのかも知れません。
ややあって、お雪ちゃんが、針の手を休めないで、
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おととしの十月
中《なか》の亥《い》の子《こ》に
炬燵あけた祝いとて
ここで枕並べてこのかた
女房のふところには
鬼がすむか蛇《じゃ》がすむか
それほど心残りなら
泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
蜆川《しじみがわ》へ流れたら
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
[#ここで字下げ終わり]
と三味線に合わせて口ずさみましたから、たれよりも最も多く机竜之助が驚きました。
何だ――お前それを知っているのか、いつそんなことを覚えたのだね、小娘は油断がならない、と心底から驚いたかも知れません。
それには頓着なく、お雪ちゃんは、ただもういい心持になっているようです。
そうこうしている時に、さしもの三味線がやみました。誰も御苦労さまというものもなく、もう一段と所望する者もない。
一息入れてまた弾き出すかと思うと、それで全く一段の終りです。
「お雪ちゃん、今のを、もう一ぺん歌ってごらんなさい」
と竜之助が言いました。
「でも……」
お雪ちゃんがハニカミながら、
「あのイヤなおばさんが、よくこれを語りますから、わたしもつい覚えてしまったんですもの……それに浅吉さんもなかなか上手でしたわ、どうかすると、三味線もよく弾いていました」
「感心なものだ」
「泣かしゃんせ、泣かしゃんせ……あそこのところがなかなかようござんすね。あのイヤなおばさん、あんな様子をしていながら、いい声でしたよ。どうかすると、わたしたちでさえほれぼれするようないい声を出して、あのさわり[#「さわり」に傍点]を語りました」
お雪ちゃんは相変らず余念なく、縫取りの針を運ぶように見せながら、
[#ここから2字下げ]
それほど心残りなら
泣かしゃんせ
泣かしゃんせ
その涙が
蜆川《しじみがわ》へ流れたら
小春が汲んで
飲みゃろうぞ
[#ここで字下げ終わり]
別段得意にもならないで、たのまれたから繰返してお聞かせ申す、というわけでもなく、素直にそのさわり[#「さわり」に傍点]のアンコールを繰返すところは、たあいないものです。
「それから……」
竜之助がそのあとを所望すると、
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あんまりむごい治兵衛さま
なんぼお前がどのような
せつない義理があるとても
二人の子供は
お前なんともないかいな……
[#ここで字下げ終わり]
ここへ来て、お雪ちゃんがどういうものか、しくしくと泣いて、あとがつづけられなくなりました。竜之助は憮然《ぶぜん》として、もうそのあとを所望はしません。
お雪ちゃんは、どうしたものか、とうとう縫取りを投げ出して、炬燵《こたつ》の上にうつぶしになって、聞えるほどの声を出して泣いてしまいました。
「どうしたの……」
「二人の子供は、お前なんともないかいな……というところで泣けました、泣けて泣けて、仕方がありません」
お雪ちゃんは、わっと泣いてしまいました。この娘が近頃、感傷的になっているというのは、多分こんなところをいうのでしょう。
三界流転《さんがいるてん》のうち、離れ難きぞ恩愛の絆《きずな》なる――といったような、子を持った親でなければわからない感情のために、お雪ちゃんが泣きました。
子を持った親でなければわからない感情のために、子を持たぬお雪ちゃんが泣くくらいだから、少なくとも子を持って、人の親として経験を経てまでいる竜之助はいかに。
単に小娘の口ずさむ浄瑠璃《じょうるり》のさわり[#「さわり」に傍点]の一ふしぐらいに、やすやすと涙を流すほどの男ならば、文句はあるまいに、それが、どうしたものか、横をむいてしまいました。
もし、彼の見えないところの眼底に、この時、一点の涙があるならば、それは春秋の筆法で慶応三年秋八月、近松門左衛門、机竜之助を泣かしむ……というようなことになるのだが、泣いているのだか、あざけっているのだか、わかったものではない。
お雪ちゃんは、何が悲しいのか泣いている。竜之助は何ともいわないで、横を向いたまま静かにしている。
そうして、しめやかな沈黙がかなり長くつづいた時分に、以前の柳の間の廊下の方で、
「お雪ちゃん、お雪ちゃん」
と呼びながら廊下を渡って来る人。そこにいないものだから、たしかにここと、バタバタと草履《ぞうり》を引きずりながら、
「お雪ちゃん、こちらにおいででしたね、ちょっと」
「久助さんですか」
「はい」
姿は見えないけれども久助に違いないから、お雪はあわててその涙の面《おもて》を隠そうとした時、
「あの、皆さんが、俳諧の運座をはじめますから、お雪ちゃんにも、ぜひ、いらっしって下さいって……」
四
その日の午後の浴室。北原賢次は板の間の上で、軽石で足のかかと[#「かかと」に傍点]をこすり、小西新蔵は湯槽《ゆぶね》のふちにぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]をのせて、いい気持になっている。
窓越しに、初冬の日の光が浴室いっぱいにさしている。
この二人は、どちらも池田良斎の一行で、この白骨の湯で冬籠《ふゆごも》りをし、春の来《きた》るのを待って、飛騨の方面へ飛躍しようとする一味の者。
「お雪ちゃんは、とうとう運座へ出て来なかったね」
湯槽のふちにぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]をのせて、いい心持につかっていた小西新蔵が言う。
「うむ、出て来なかった。あの娘はこのごろ少しどうかしているよ」
と北原賢次が、かかと[#「かかと」に傍点]をこすりながら答える。
「そうだ、快活なあの娘が、このごろ少しふさいでいる、呼ばないでも出て来て、われわれを賑《にぎ》わしたあの子が、めっきり引込思案になってしまったのは気になるよ」
そこで二分間ばかり話が切れ、
「あの娘は看病に来ているんだよ――病人を連れて来てるんだね、その方が忙しいんだろう」
「え……病人を連れて、あの久助という老人のほかに、あの娘に連れがあったのかい」
「あったにもなんにも……だが、誰もまだ同じ宿にいながら、その人の姿を見た者が無いんだ、よほどの重体で枕が上らないんだろう」
「なるほど……その看病でお雪ちゃんが出て来られないのだな」
「多分、そんなことだろうと思う」
「それは何人《なにびと》だろう、あの娘の身うちの者か、それとも……」
「さっぱり正体がわからないんだ、また、強《し》いて尋ねても悪かろうと遠慮もしているが、とにかく、身内の者には相違あるまい」
「近親の看病のためにふさいでいるならいいが……万一ほかの事情であの娘の性格が一変するようでは、かわいそうだ、あんな性格の娘は、どこまでもあのままで保護存養して行きたい」
「そうでなくてさえ、このごろは番人がヒヤヒヤしている、飛騨の高山の者だというあの油ぎった後家《ごけ》さんと、その男妾《おとこめかけ》の浅吉とやらが変死してから……留守番や、山の案内がこわがっている、この上、お雪ちゃんでも病みつこうものなら、鐙小屋《あぶみごや》の神主でも祓《はら》いきれまいよ」
二人は、いい気持で、こんな噂《うわさ》をしているが、窓の上高く、三階の勾欄《てすり》のあたりを見上げた時、何かこの晴れ渡った白骨温泉場の空気の底に、抜け穴があって、張りきったものが、そこから無限の下へもれて行くような気持がしないでもない。
かかと[#「かかと」に傍点]をこすり終った北原賢次も、何かちょっとそんな気分にさわったことがあると見え、
「時に、根も葉もあるではないが……あのお雪ちゃんが、妊娠しているという噂を聞かないかい」
「え……妊娠、あの娘が」
小西新蔵が、ちょっと枕を立て直す……そこで二人の会話が、また五分間ばかり途絶《とだ》える。
やがて、声高に、笑談まじりに、二人は何か話しはじめたが、ばったりと立消えになってしまうと、暫くあって、森閑たる浴室の外へ聞えるのは、小西新蔵がやや得意になって、
[#ここから2字下げ]
聞くならく
雲南《うんなん》に瀘水《ろすい》あり
椒花《せうか》落つる時、瘴煙《しやうえん》起る
大軍|徒渉《とせふ》、水、湯の如し
未《いま》だ十人を過ぎずして
二三は死す……
[#ここで字下げ終わり]
と断続して、「且《しばら》ク喜ブ、老身今|独《ひと》リ在リ、然《しか》ラザレバ当時瀘水ノ頭《ほとり》、身死シテ魂|孤《こ》ニ骨収メラレズ、マサニ雲南望郷ノ鬼トナルベシ……」と、急転直下、朗読体に変って行ったのが、白日の浴室の中に、恨みを引いて糸の如し、と見れば見られないこともないのです。
果して、お雪ちゃんはその日一日を、源氏の間で暮してしまいました。
暗くなって帰る時、ちゃんと竜之助のそばへ行燈《あんどん》をつけて、自分の部屋へ帰り、そこでまた行燈をつけて、炬燵《こたつ》のうずみ火を掻《か》き起して、やぐらの上へ頬ずりをするほどに身を押しつけてしまったくらいですから、別段、あわてた素振《そぶり》も、うろたえた様子も見えません。
けれども、そこで、ぐったりとして、改めて仕事にかかろうでもなし、別に蒲団《ふとん》をのべて寝ようとするでもありません。
じっと、炬燵櫓《こたつやぐら》の上に身を押しつけたままで、動くことさえがおっくう[#「おっくう」に傍点]のように見えました。
こうして、半時ばかりも、じっとしている間に、ひとりでにお雪ちゃんの眼が、涙でいっぱいになりました。
いっぱいになった涙が、ハラハラと頬を伝って流れましたけれども、それを拭おうともしない間に、相次いでの感情がこみ上げて来ると見えて、ついつい本当に泣いてしまいました。本当に泣くと、ここでは、思うさま、誰に遠慮もなく、泣いて泣いて、泣けるだけ泣いてしまいました。
若い娘は箸《はし》のころんだのにも笑いたがると共に、葦《あし》の葉の傷《いた》めるのにも泣きたがるものです。
お雪ちゃんという子は、今まであまり泣きたがらない子でありました。それは泣くべき必要がないからでした。誰をも同じように愛し、同じように愛されている者に、泣くべき隙間の起るはずがありません。
お雪ちゃんは、その晩、改まって床に就いたのか、就かないのかわかりませんでしたが、翌朝になると、かいがいしいみなり[#「みなり」に傍点]をして、机に向って一心に物を書きはじめました。
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「弁信さん――」
[#ここで字下げ終わり]
弁信の名は、まさしくこの娘のためには救いであるらしい。
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