も、白骨の温泉が別府となり、熱海となる気づかいはあるまい。まして日本アルプスの名もまだ生れてはいないし、主脈の高山峻嶺とても、伝説に似た二三の高僧連の遊錫《ゆうしゃく》のあとを記録にとどめているに過ぎないし、物を温むる湯場《ゆば》も、空が冷えれば、人は逃げるように里に下る時とところなのですから、ある夜のすさびに、北原賢次が筆を取って、
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白狼河北音書絶(白狼河北、音書《いんしょ》絶えたり)
丹鳳城南秋夜長(丹鳳城南、秋夜《しゅうや》長し)
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と壁に書きなぐった文字そのものが、如実に時の寂寥《せきりょう》と、人の無聊《ぶりょう》とを、物語っているようであります。
 その時、その温泉に冬越しをしようという人々――それはあのいや[#「いや」に傍点]なおばさんと、その男妾《おとこめかけ》の浅吉との横死《おうし》を別としては、前巻以来に増しも減りもしない。
 お雪ちゃんの一行と、池田良斎の一行と、俳諧師《はいかいし》と、山の案内人と、猟師と、宿の番人と、それから最近に面《かお》を見せた山の通人――ともかくも、こんなに多くの、かなり雑多な種類の人が、こ
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