分違いの女一人のために、名誉も、身上も、棒に振ってしまった、全く馬鹿殿様と言われても仕方があるまいではないか。それを、親方のお角が、何でこんなに身を入れて、弁護するのだかわからないが、うっかりその殿様の悪口《あっこう》をいえば、親方の御機嫌がこの通りに損《そこな》われるということだけは、この際、ハッキリと経験したから、以後は自分も慎み、朋輩《ほうばい》にも申し聞けておかねばならぬという戒慎の心だけは起ったらしい。
「そうでしょうね、やっぱり、エライ人は、エライんでござんしょうよ」
詮方《せんかた》なく感心しておくと、
「それからね、政どん」
「はい」
「わたしは、申し置いて来るのを忘れたが、あの絵の先生ね」
「ええ、田山白雲先生でございましょう」
「そうそう、あの先生に、一言おことわりをしておくのを忘れちまったから、あとからもしや間違いがなけりゃいいと気のついたことが、たった一つありますよ」
「それは何でございますか」
「もしや、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんが、留守中にやって来て、例の調子で、先生に失礼なことをしやしないか、それが、あとで心配になり出して、ことわって来ればよかったと、いまさら気を揉《も》んでいるのさ」
「なるほど、その辺もありましたねえ」
「お前、がんりき[#「がんりき」に傍点]があの通り気の早い男でしょう、絵の先生ときたら、お前、かなりの豪傑者なんだから、間違いがなけりゃいいがと心配するのも、無理のない考えだろう」
「そうでございますとも……ですけれどもね、絵の先生の方は、豪傑は豪傑でいらっしゃるけれど、人間が出来ておいでなさるから、まさか、がんりき[#「がんりき」に傍点]の兄さんを相手に、大人げのないこともなさるまいと思います、御心配ほどのことはござんすまいよ」
「そりゃそうかも知れない」
「大丈夫でございますよ」
一けた間違えられた房総の半島がワキに廻って、当面の風景は、大山阿夫利山《おおやまあふりさん》であり、話題は留守中の人に向っている時、後ろでしきりに人の呼ぶ声がします――最初は自分たちを呼ぶのではあるまいと思ったが、今になってみると、自分たちを呼んでいるのに相違ないと疑われる。
どうも自分たちを呼びとめるような声だけれども、待ってみると誰も来ず、来ても全く当りさわりのない人間ですから、そのまま駕籠《かご》を進ませると、
「お気をつけなさいましよ、胡麻《ごま》の蠅《はえ》が一匹ついて参りましたようですから」
芳浜《よしはま》の茶屋あたりで、通りすがりに注意してくれた旅の人がありました。
それとも、自分たちに注意してくれたのだか、ほかの者に気をつけていったのかわからないうちに、その旅人は行き過ぎてしまいました。
道中に胡麻の蠅はつきものである。いちいち胡麻の蠅を怖れていては、道中はできない。またそれが一匹や二匹とまってみたからとて、驚くお角さんではありません。
真鶴《まなづる》を通り越した時分に、またしても後ろから呼びかける声です。そうそうは振返ってもおられない。頓着なしに駕籠をやってしまうと、果して何事もなく、七ツには小田原着。
今日はここで泊る。
夕飯を終って、按摩《あんま》を取って、まだ寝るには早い。安閑と早寝をするのを、身体を腐らせるほどにいやがるお角さんは、寝るまでの間に何か仕事をしたい。
といって、仕事がない。ぶらぶらと夜の小田原宿の景色でも歩いて見ようか知ら――と考えているところへ、
「お客様、講釈をお聞きにいらっしゃいませんか――いい太夫さんがかかったそうです、席はついこの後ろでございますよ」
可愛らしい小女の女中が、突然にこういって案内をする。
「講釈?」
とお角さんが聞きとがめました。なるほど、ここは東海道筋の目貫《めぬき》と言い、箱根、熱海の温泉場の追分のようなものだから、湯治場かせぎの講釈師が溢《あふ》れそうなところだ。
お角は、そこで講釈を聞いてみようという気にはならなかったが、講釈の席へ入ってみたいという気にはなりました。
この女は、転んでもただは起きない女であります。たとえば往来を通りながらも、見どころのありそうな子守女を発見すると、その親許までつきとめてみたがる女であります。今夜も宿《やど》のつれづれに、宿《しゅく》を散歩してみようかという気になったのも、小田原宿の夜の気分に浸って、そうして旅心を漂わせてみようというのでもなく、何かしかるべき商売柄の掘出し物にでもありつき得れば、ありつき得なくても元は元だが、どこかに抜け目のない心の働きが、自然とそんな思い立ちをさせるものと見えます。
講釈――と聞いて、講釈そのものには興味は催さなかったが、さて、この土地の席亭の模様はいかに、客種はいかに、講釈といううちにも一枚看板でやるのか、また
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