#「ただ竹を四本立ててぞゐたりける」に傍点]」
[#ここで字下げ終わり]
「どうです、すっかり人を釣っておいて、最後に突放した手際はあざやかなものじゃありませんか、ゆゆしく作り立てなさばやと心には思えども、いろいろ事足らねば、ただ竹を四本立ててぞいたりける……が旨《うま》いじゃありませんか」
兵馬もばかにされた思いをしながら、それでも行文の妙味に、少なからず感動させられたようです。
眼の前にころがる餅を取ることがおっくう[#「おっくう」に傍点]で、三日の間、人の通るのを待っているという徹底した物臭ぶり。
それでも、鳥や、犬の横取りを怖れて、棒をもって、それを逐《お》うだけの労は厭《いと》わず、三日目に馬上で来た役人をつかまえて、その餅を取らせようと試みたが、それが無効なので、さては天下にわれより以上の物臭がある、僅かに馬から下りて、餅を拾ってくれるだけの労をさえ厭う者がある、と感服していた男。
それが、ある大納言に見出されて京都へ上り、首尾よく勤め上げて、また信濃へ帰ろうとする時の話――
国への土産に、よい女房をつれて帰りたい。
よい女房を求めるには「辻取り」ということをせよと教えられて、清水《きよみず》のほとりに出でて、女の辻取りをやる。
侍従の局《つぼね》という、すばらしい女房をとっつかまえて、歌を詠みかけたりなんぞして、とうとうものにする。
この女房が、物臭太郎を七日の間、湯につけて、二人の侍女に磨かせると、真黒な物臭太郎が、玉のように光り出す。
これに直垂《ひたたれ》を着せ、衣紋《えもん》をただし、袴をはかせて見ると、いかなる殿上人《てんじょうびと》もおよび難き姿となって、「おとこ美男」の名を取る。
それに、歌を詠ませると、なかなかの名歌をよむ。
物臭太郎では勿体《もったい》ない――新たに歌左衛門という名を、豊前守《ぶぜんのかみ》がつけてくれる。
帝《みかど》の御前に歌をよみ、御感《ぎょかん》にあずかり、汝《なんじ》が先祖を申せとある時、はじめて国許を仔細に探ると、人皇《にんのう》五十三代のみかど、仁明天皇の第二の皇子、深草の天皇の御子、二位の中将と申す人、信濃へ流されて……という系図が現われて、信濃の中将になり、甲斐、信濃の両国を賜わり、この女房を具して任国へ下り、一門広大、子孫繁昌というめでたさ。
この物臭太郎がすなわち穂高の明神となり、女房が朝日権現とあらわれる――これは文徳天皇の御時なりし……とある物臭太郎一代記を神主の口から、かいつまんで聞かされてしまった宇津木兵馬。
すすめられた渋茶に咽喉《のど》をうるおして、いざとばかり、再び立ち出でた前路に日が高い。
物臭太郎一代記――思い出してもばかばかしさの限りだが、時にとっての何かの暗示。
「辻取り」というのは、初めて聞いた。
刀には「辻斬り」というのがある。柔術《やわら》には「辻投げ」というのがある。ならば「辻取り」というのもあってよかろうはず。いや、その物語によれば、辻取りは、辻斬りや、辻投げの流行せしずっと以前に行われていたはず。
結婚は、ついに掠奪《りゃくだつ》であるというような思想が、兵馬の頭をかすめた時に、かれは浅ましい思いをする。物臭太郎の場合は、それが無邪気に実行されたのみだが――歴史は無邪気のみを教えない。
兵馬の頭が、奪われたる女ということに向う。「辻取り」は今の世、今の時にも行われる。現に、たった今、その災難に逢ったのは自分ではないか。
奪われた心。奪われたのではない、いわば厄介払いをしたのだが、なんとなく安からぬ心を、如何《いかん》ともすることができない。
人もあろうに仏頂寺、丸山のやからに、むざむざと一人の女性を渡してやったその不安。
日が高くなるほどに、兵馬にはその不安がこみ上げて来る。
ついに決心して、自分はそのあとを追わねばならぬ、追いかけて、二人の手からあの女を取り戻して……取り戻さないまでも、あの女の先途《せんど》を見届けてやらねばならぬ。これは単に女というものに対するの未練執着ではないのだ、義の問題だ、人間の道だ。
女の性質がどうあろうとも、こうあろうとも、むざむざと食い物にせらるべき運命をよそにして、ひとり悠々閑々の旅行ぶりが続けられるか、続けられないか。
兵馬はにわかに腰の刀をゆり上げて、松本街道の一本道を、駈足で走り出しました。
八
雪に埋《うも》れんとする奥信濃の路とは違い、ここは明るい南国の伊豆、熱海街道の駕籠《かご》の中に納まって、女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》が、駕籠わきについている、いつも、旅には連れて出るいなせ[#「いなせ」に傍点]な若い衆に向って言うことには、
「ねえ、政《まさ》どん」
「はい」
「向うに見える山はありゃど
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