ら、そこまで連れて来てもらおうか」
「旦那様は、一緒においでなさらねえのかね」
「ああ、拙者は一足先に待っている」
「ようござんす、ちょうど、この馬も等々力まで行く馬ですから、穂高へは順でございます。では、旦那様、物臭太郎《ものぐさたろう》あたりでお待ちなすって下さいまし」
「物臭太郎とは?」
「穂高の明神様の前のところでございます、物臭太郎でお待ち下さいまし」
「では、そうしよう」
 物臭太郎というのが奇抜に聞えましたけれど、それは何か因縁があるのだろう。その因縁はここで問うべき必要はない。指示された通り穂高神社を標準として、物臭太郎を目的としていれば差支えない。
 兵馬は、子供に若干《いくらか》の手間賃を与えて、またも悠々閑々《ゆうゆうかんかん》として、松本平へ下りました。
 これとても、おぞましいことです。見殺しにする気なら、見殺しに殺しつくすがよい。
 最後まで助け了《おお》すつもりならば、人の手や、馬の力を借る必要はない。あくまで自分の背に負い通して行くこと。
 ここに至って、切れ味がまた鈍《にぶ》る――所詮、これは仕方がないと思ったのでしょう。
 穂高神社の物臭太郎をたずねて来た宇津木兵馬。
 くすぐったいような思いをしながら、物臭太郎をたずねてみると、どうもちょっとわからない。
 所在がわからないのではない、教える人の、教え方がまちまちなのだ。ある者は、その後ろの方にあるべき塚を教えて、それが物臭太郎だといい、ある者は、その末社の一つに物臭太郎が祭られてあるといい、ある者はまた、その本社そのもの、つまり、穂高神社そのものが物臭太郎を祭ってあるのだともいい、なおある者は、物臭太郎とは、その社前の接待の茶屋がそれだ、その茶屋のある所に、昔、物臭太郎がいて、思いきった怠慢ぶりを発揮していたもののようにもいう。
 兵馬には何だか、物臭太郎の正体がわからない。その名前だけは昔噺《むかしばなし》のうちに聞いているが、しかし、徹底した怠け者が神に祭られているとは、ここへ来てはじめて聞く。
 ともかくも、その接待の茶屋。
 これは今、風《ふう》の変った立場《たてば》ということになっている。土間には炉があって、大薬缶《おおやかん》がかかり、その下には消えずの火といったような火がくすぶっている。その周囲には縁台が置きならべてある。
 まだ早いから、誰もこの立場へ立寄ったものはないらしいが、火だけは、人がいても、いなくても、ひねもす夜もすがら燻《くすぶ》っているから、自然、何となしに、人間の温か味も絶えないように見えます。
 兵馬は縁台の一つに腰をかけると、そのままゴロリと横になって、頭をかかえてしまいました。
 来るならば、馬の足だから、もう疾《と》うに着いてもいいはずだ。自分より先へ着いてもいいはずだ。道は例によって悠々閑々と歩いて来たのだから、途中で追い抜くくらいになってもいいはずなのだが、それがまだ着かない。
 自分で振切ったものを待っているというようになっては、後ろめたい話だが――そうかといって、約束は約束だ。
 こういう時に、吉原でさんざんに翻弄《ほんろう》された、つい遠からぬ頃の記憶が、芽を吹き出さないということはない。実は翻弄ではない、あれがあたりまえなのだ。玄人《くろうと》が素人《しろうと》をあやなす手はあれにきまったものなのだが、こっちが真剣でかかればかかるほど、その結果が翻弄ということになってしまうのを、兵馬も今は気がついているでしょう。
 多分、苦い味は嘗《な》めさせられたけれども、まだそこまでは、人生というものを軽蔑はしきれないのだろう。商売だから仕方がないものの、その多数の客のうちでは、自分だけがいちばん可愛がられていたという思い出は、まだどうしても去らないに違いない。
 だが、先方は玄人《くろうと》だ。こっちがあせればあせるほど、擒縦《きんしょう》の呼吸をつかむことが、今になって、わからないでもない。武術の上から見ても、この点は段違いだと、胆《きも》を奪われたことが幾度か知れない。夢中に夢を見て、それが夢だとは思われないと同じこと、玄人であり、商売人であり、かけ引きと、翻弄とのほかに真実味は何もない――と悟らせられながら、やっぱりそれにひっかかる。
 みようによっては、どこを見ても、ここを見ても、隙《すき》だらけだと、腹に据えかねながら、それに打ち込めない。打ち込めば、思う壺というように、あやなされてしまう。
 その太刀筋《たちすじ》がよくわかる時と、まるっきりわからないことのあるために、煮え切らない、腑甲斐《ふがい》のない、ふんぎりのつかない、なまくら者にされてしまうことが、我ながら愛想の尽きるほど心外千万だ。
 だが、あの女も、ああして老人《としより》のお囲い者となって、あれで満足していようはずはない
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