こっちだから、いいかげんにタカをくくっているものらしい。
 何のつもりか、外郎《ういろう》を二丁買い込んで、それを胴巻の中へ、しまおうとする途端に、店頭《みせさき》の一方から不意に、
「御用!」
 当人にとっては、お約束のような掛声で、やにわに組みついて来たのを、そこは心得たとばかり、体《たい》を沈めると、組みついた手が外《はず》れるのをキッカケに、するりとすり抜けて、表へ飛び出したのは型のような鮮かさで、それから後は得意の駈足です。
 御用の声が、二三人、透《す》かさずそのあとを追っかけて、小田原の町の朝景色を掻《か》き乱す。
 当人は心得きっているのだから、ここを逃げるのは、それこそ本当の朝飯前だ。山谷《さんや》や袋町の行詰りとは違い、四通八達の小田原城下を、小路小路まで案内知った常壇場《じょうだんば》のようなものだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]としては、子供相手に鬼ごっこして楽しむようなものかも知れないが、大手通りの町角で、また不意に飛び出した、
「御用!」
の声に面食《めんくら》って、
「こいつは、いけねえ」
 敵に用意のあることを知ったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、ここで真剣になりました。寄手《よせて》はもう、ちゃんと手筈をきめて、つまり非常線を張って自分を待ちかけているのだ。それを悟らずに、甘く見てかかったのは手落ちだ。この分では、袋の鼠にされちまっている。
「ちぇッ、ドジを踏んじまった」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、自分をたのむだけに、相当に敵をも知っている。たとえ行止りであろうとも、一方から追われる分にはなんでもないが、白昼、しかも城下町で、非常線を張って包まれた分には、たまるまいではないか。何だって、外郎なんぞを買いに出たんだろう。いよいよおれもヤキが廻ったかなと、歯がみをしたが、やはり同じように、御用の手先をスリ抜けて、真直ぐに走ると大手門の前へ出る。ますますいけない。引返そうとすればさいぜんのが追いかけて来る。ままよ――横っ飛びに飛んで、侍町の生垣《いけがき》の下を鼠のように走ると、御用の声を聞き伝えた家並《いえなみ》が騒ぎ出す。
 夜ならば、身をくらます手段はいくらもあるのだが、こうなっては、どうも仕方がない。屋根へも上れず、井戸へも飛び込めない。突当り路地へでも追いつめられて、ギュウの音も立てず、名も無き敵に首を掻《
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