色とを流動して見せる、かぎりなき池でありました。
そこから立ちのぼる一味清涼の風光。それを弁信はまのあたり見ていると、その紅蓮の池の真中に、二つの人の姿の裸形《らぎょう》なのが現われるのを見ました。その一つは、母と覚しい年配の女の姿で、他の一つは、まだ十歳にはなるまいと思われる男の子の姿であります。
母子二人は、その紅蓮の池の中を楽しげに歩いていました。広大なる火焔の池の中を、自家の庭園を歩むもののように歩んでいたが、ある一点へ来ると、二人は急にそこにとどまって、相抱いて地に伏してしまいました。それは無論苦しむために地上に伏したのではなく、春の野に、もえ出したつくし[#「つくし」に傍点]を、母が子のために摘《つ》み取ってやるような気分で、地にうっ伏したものと見えるが、不思議なことには、一旦うっぷしてしまって後に、再び頭を上げることがありませんでした。さいぜんはあれほど楽しげに歩いていたものが、ここに来《きた》って、どうしても地上から起き上らないのは、なにゆえでしょう。
弁信は、それをも不思議だと思いました。その時に火焔の海が、何十里というもの、おおゆれにゆれ渡ると、伏していた母子の姿が見えなくなりました。
その途端のこと――その火焔の海の上に二つの髑髏《どくろ》が現われました。それはまさしくさいぜん、地にうっぷした母子の姿の見えなくなった地点であります。
真紅の広海の上に置かれた純白な二つの髑髏――それを弁信だけが、まざまざと見ました。
そこで弁信は思わず合掌《がっしょう》して、
「推落大火坑、念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、火坑|変成池《へんじょうち》……」
と念じました。
そうすると、二つの髑髏もグルリと弁信の方へ向き直って、そのうつろな四つの眼を合わせて、弁信の方を見つめ出しました。そこで弁信はいやおうなく、
「或漂流巨海《わくひょうるこかい》、竜魚諸鬼難、念彼観音力……」
とつづけますと、髑髏が喜びました。そのうつろな眼を以てしきりに、もっともっととせがむような気がしますものですから、そこで弁信は容《かたち》を改めて、妙法蓮華経観世音菩薩|普門品《ふもんぼん》第二十五を、最初から高らかに誦《ず》しはじめました。
経を誦して半ばに至らざる時に、髑髏のうつろなる眼から、ハラハラと涙のこぼれるのを、弁信法師は確かに見ました。
いよいよ普門品一巻
前へ
次へ
全187ページ中184ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング