「まあ、この赤い櫛を一つお買いなさんし、これがのし、負けて六十四文にしてあげませず[#「あげませず」に傍点]」
「おいらは、櫛は買いてえと思わねえんだ、おいらが櫛を買ったって、始末に困らあな」
「まあ、そうおっしゃらず。こちらにも三ツ櫛のいいのがござんさあ」
「人柄を見て物を言いな、櫛を買うような人間には出来ていねえんだぜ」
「それでは、おかみさんへのおみやげに」
「ばかにしてやがら、おかみさん面《づら》があるか」
かくて米友は、また一散《いっさん》に走りました。
なんとしても、水が上へ流れないように、上方《かみがた》へ上る約束で来た道庵先生が、東へ向くはずがないから米友は、その点は安心して、木曾街道の要所を、わき目もふらずに走りました。
走りながら様子を聞いてみると、それは往々、程遠からぬ時間の間に、尋ねるとおりの人が、この街道を通った形跡は確かにある。
やや、安心した米友は、ついに二里半を飛んで、上松の駅まで来てしまいました。
そうして、碓氷峠《うすいとうげ》の上の駅でしたように、その駅のほとんど一軒一軒について、たずねてみると、あるところでは相手にされないが、あるところではかなり要領を得ることになる。
結局、とある酒店で、持参の瓢箪《ひょうたん》の中へいっぱい清酒を詰めさせた客人があるという手がかりがあって、それから問いただしてみると、それは多分|件《くだん》の一瓢を携えて寝覚《ねざめ》の床《とこ》へおいでになったのだろうとのことです。
「寝覚の床というのは?」
米友から問い返されて、かえって、尋ねられたものが驚きました。
木曾を歩きながら、木曾第一の眺望、寝覚の床が頭の中に無いという旅人も珍しい。この男は、何のために木曾道中をしているのだかわからないと驚きました。
事実、米友は、風景をながめんがために旅行をしているのではないとはいいながら、沿道の風景を無視していることがかなり甚《はなは》だしい。道庵は道庵だけに、軽井沢の夕暮の情調を味わうことも知っていれば、浅間の湯治場の祭礼気分に、有頂天《うちょうてん》になるほどの風流気もあるし、木曾路へ入ってからでも、夜間、暇を見ては読書もするし、かなり四角な字を並べたり、色紙《しきし》、短冊《たんざく》を染めてみたりしているのですが、米友にはそれがない。
現に、この福島から、上松に至るの間には木曾
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