あります。
 しかし、後ろから音もなく、与八の首へ縄を巻きつけたその人とても、必ずしも与八をくびり殺そうとして、そうしたわけではなく、この際、与八に声を立てられることを怖れての非常手段と見えますから、あちらからいえば、正当防衛の一手段に過ぎないかも知れません。大へんおとなしく、素直に与八を引き寄せて来て、
「声を立てないでおくんなさいね、少しの間、ここへ、私を隠しといて下さい、たのみますよ」
 その人が、与八を引据えるようにして、自分もそれと向い合って、炉辺に坐りこんでしまったのを見ると、与八には馴染《なじみ》とはいえないが、珍しくもない裏宿七兵衛でありました。与八は、恐怖と、驚愕と、それから与八にしては珍しい幾分の叱咤《しった》の気味で、
「お前さん、どこの人だか、不意にはいって来て失礼じゃねえか」
 ゆるめられた縄の下から、与八がこう言いました。七兵衛は騒がない声で、
「どうも済まなかった、かんべんしておくんなさい。実は今そこで、おそろしく強い狂犬《やまいぬ》に出逢《であ》ったものだから、逃げ場を失って、こんな始末さ。なにも、お前さんを苦しめようのなんのというのが目的じゃねえんですから、どうか、勘弁しておくんなさいまし」
「うん――」
と与八は、おとなしい眼を不審の色に曇らせて、改めて七兵衛の姿を見やり、見おろし、
「お前さん、狂犬《やまいぬ》に吠《ほ》えられたとお言いなすったね」
「ああ、どこの犬だか知らねえが、この上の方に、おっそろしい強い狂犬がいるよ」
「お前さん、ありゃ狂犬じゃありませんよ」
「え、どうして」
「ありゃ、ムクですよ」
「ムク……」
「ムクが吠えたんですよ」
「ははあ、なんにしても、すっかりオドかされてしまいましたよ」
「お前さん」
 与八は、しげしげと七兵衛の姿を見ているから、七兵衛は少しバツが悪く、
「何だい」
「お前さん、何か悪いことをしたろう」
「えっ」
「何かお前さん、悪いことをして来たね」
「飛んでもねえ、私は何も悪いことなんぞをする人間じゃあねえ、この通り、六郷下《ろくごうくだ》りの氷川《ひかわ》の筏師《いかだし》だよ」
「いけねえ、お前さん、何か悪いことをして来たから、それでムクに吠えられたのだ」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません、犬に吠えられる奴が、みんな悪い奴であった日にゃ、夜道をする奴はみんな泥棒……だね」
「犬
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