を突っついていたが、どうも女の息づかいが……荒い。どうしてこの息づかいが、今以てこの水車小屋を去らないのか。
 いけない、いけない。
 与八は、この時、携えて来たイヤな絵馬を取って炉の火に焼き捨てようとしたが、その途端にまたゾッとして、絵馬を持つ手をわななかせたのは、それは、今以て残る女の亡霊の幻《まぼろし》とやらに驚かされたのではありません。与八は、その途端に、遠く犬の吠《ほ》える声を聞きました。
 犬の吠える声といっても、それは尋常の犬の吠える声ではありません。ここよりは頭上にあたる机の本家、今はそこに飼われているムク犬が、何に驚いてか、鐘をつくような声で吠えるのが、ありありと与八の耳に入りました。

         二十四

 ムクは滅多に吠《ほ》えない犬であります。
 現にここへ来てからにしてが、ほとんどムクの吠えたというのを聞いたものがありますまい。ムク犬の吠えないだけ、それだけ平和であり、ムクの吠ゆる時は、尋常の時でないことは、与八もよく知っているのであります。
 そうして、かなりの遠くの距離にいて、多くの雑音の中にあっても、ムクの吠ゆる声だけは、いつも殷々《いんいん》として聞き取ることができるのであります。
 そこで与八は、何か本家の方に非常が起ったのだと胸を打たれました。その非常の程度はわからないが、ああしてムクの声が聞えたことそれだけで、人間の騒ぐより以上の何事かが突発して来たものと見て、さしつかえないのであります。そこで与八が胸を打たれて心配しました。
 心配したけれども、しかし絶望はしません。
 ムクの吠えたのが非常を示すと共に、ムクの存在ということが、非常な心強さを与えるものであります。何となれば、ムク犬が存することによって、幾多の人間が備えている以上の安心を、保証し得るからであります。
 ひとたび心配した与八は、二度《ふたたび》安心はしましたけれども、ともかく、ああして非常の暗示があってみれば、ここにこうしているわけにはゆかない。そこで本家へ取ってかえそうとして鈍重な身を起しかけた時、不意に裏口の戸があいて、そこから声もかけずに人が一人飛び込んで、また素早《すばや》くその戸を閉《とざ》してしまったことを知りました。しかしそれは鈍重な与八が身を起しかけた途端、その背後で起ったことですから、与八は、その入り込んで来た人の影をだに見ることができ
前へ 次へ
全187ページ中122ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング