て、それから仕事にかかろうと、片隅の方に置いていた行燈に、さぐり足で近寄ろうとして物につまずきました。
 なにかしらん。思いがけないところで、物につまずくと、そのハズミでバリバリとその物を踏み裂いてしまった音がしたので、与八も狼狽《ろうばい》して手さぐりにして見ると、相応の四角な薄手のものを包んだ風呂敷包です。
 はて、こんなものをここへ、自分は置いといたはずはないのだが、何か知らん。どうした間違いか知らん、今の足ざわりと、物音では、自分が、この中のものを踏み砕いてしまったことは確かである。はて、大事なものであってくれなければいいが……
 そこで、与八は歩き直して、ようやく行燈に火をつけて、そこで今の踏み砕いたものを見ると、いつも、お松さんが持ってあるく風呂敷には違いない。では、お松さんがここへ置いといたのだ。それを自分が過《あやま》って踏み砕いてしまったのだ。中は何だろう、済まないことをした、どうも済まないことをした、と与八は一層の心配をはじめました。
 包み方が簡単であったために、その一端が風呂敷の外に露出しているから、中の品物の何物かを認めるのは骨が折れません。それはありふれた納め物の絵馬《えま》です。そこらの辻堂の中あたりにいくらも見られる絵馬であることは確かだが、絵馬だからといって、踏み砕いてしまったのでは相済まない。修繕の工夫はないものか知らんと、知らず識《し》らず与八は、もうすでに片肌ぬぎになっていた絵馬の全身を露出させてしまって見ると、無残にも、それはホンのハズミに踏んだばかりですけれども、与八の馬鹿力で一たまりもなく、真二つに踏み裂かれてしまっていて、繕《つくろ》うべき余地もありません。
 済まないことをしてしまった。せっかくお松さんが大事にして持って来たものを、自分が足にかけて踏み砕くなんて……そんなところへ置いたものが悪いか、それを踏んだ者が悪いかは考えずに、与八は只管《ひたすら》に、自分のみが悪いことをしたと恐懼《きょうく》して、行燈の下へ持って来て、ひねくってみましたが、その時まで閑却《かんきゃく》されていたのは絵馬の面《おもて》です。それは与八が血のめぐりの悪いせいばかりではありますまい、大抵、この類《たぐい》の絵馬の模様というものはきまりきったもので、特別の注意を惹《ひ》くべき絵であろうはずもなく、また描き方も尋常一様に、板に乗っていた
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