いも[#「いも」に傍点]位にゃ食えそうな奴かい」
と神尾が悪口を言いました。これは、あんまり出来のいい、品のいい悪口ではありませんでしたけれど、神尾もこのごろは、少し品が落ちているとはいいながら、天下の直参《じきさん》だという気位はドコかにひらめかないという限りはない。西郷そのものが、いかに一代の人気を背負って立とうとも、なんの薩摩の陪臣《ばいしん》が、という気性《きしょう》はドコかに持って生れているはずだから、この際神尾として、西郷如きを眼中に置かぬという風采《ふうさい》も、ありそうなことです。
「ともかく、人物が大きうございますよ、その大きさでは、まずまず、ちょっと当代には類がございますまいよ」
と七兵衛が、相変らずの調子でつづけてゆくと、神尾は白々しく、
「人物がそんなに大きけりゃ、相撲取にしちゃどうだ」
と言ったのは、多少、皮肉のつもりでしょう。それが七兵衛には皮肉に響かないで、
「全く、相撲にもあのくらいのは、たんとありません、まず横綱の陣幕と比べて、上背《うわぜい》はホンの少し足りないかも知れないが、横幅は、たしかにあれ以上ですね」
「えー」
 神尾主膳が眼を円くしました。
「何だ、お前、器量と、かっぷく[#「かっぷく」に傍点]とを、ごっちゃにしちゃいけない」
 神尾が眼をまるくして言うと、七兵衛がさあらぬ体《てい》に、
「器量のところも大きいかも知れませんが、体格のところも人並じゃございません、いまいった通り、横綱の陣幕とおっつかっつ[#「おっつかっつ」に傍点]でございましょう、そうして、眼がすてき[#「すてき」に傍点]に大きくって、爛々《らんらん》と光っております」
「そうか――」
「滅多に口は利《き》きませんが――急所急所で、うむうむと、口を結んでしまいますと動きませぬ。尤《もっと》も、わたしのあとをつけてみたのは、薩摩屋敷から品川へ出て、東海道の道筋を微行《しのび》といったようないでたちで、同勢僅か二人をつれて、こっそりと旅行中のことでございましたから、誰も、あれが薩摩の西郷だとは気がつきません、また御当人たちもああして、誰にも気がつかれないようにして、江戸の薩摩屋敷へ度々《たびたび》おいでなさるんだそうですから、屋敷内でさえ、西郷どんがいつ帰られたのだか、知った者もないくらいなんですが、そいつを、わっしが確かに見届けたものでございますから、一番
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