中へ先触れをして歩いたらどんなものだ」
「おっしゃる通り江戸中へ、その先触れをして歩くつもりでございますが、その封切に、こうして殿様のところへ上りました」
七兵衛が、どこまでも真面《まがお》だものですから、主膳も、いよいよ笑止《しょうし》がって、
「そうして、その火元というのはどこなのだ」
「ええ、それは芝の三田の四国町の薩摩屋敷なんでございます」
「ははあ……」
「あすこが、どうしても、近いうちに起る江戸中焼払いの火元になりそうなんでございます」
「ふーん。そうして、その放《つ》ける奴は誰だい。焼けない先の火事がわかるくらいなら、その放け火をやる奴も、あらかじめわかっていそうなものだ」
「それも大抵、わかっています」
「ははあ、犯罪の無い先に、犯人の目星がついたんだから、奇妙だ。ところでその犯人は七兵衛、お前じゃあるまいな、まさかお前が薩摩屋敷から始めて、江戸中へ火をつけて歩こうというんじゃあるまいな」
「どう致しまして、わっしどもには、そんなエライ仕事ができません。できたところで、お江戸の町に対して、それほどの恨みがございませんもの」
「して、その放火《ひつけ》は誰だ」
「それは西郷吉之助というお方でございますよ」
「西郷……どこ[#「どこ」に傍点]の奴だ」
「薩州藩の豪傑でございます、それが、あなた、みんな糸をひいては江戸の市中を今のように騒がせ、追っては江戸の市中を焼き払おうと企《たくら》んでいる親玉でございますね、薩摩の西郷というのが……」
「怪《け》しからん」
神尾主膳にもまた、多少は、時勢に憤るの気概があるのかも知れません。
「あんまり、西郷西郷って、人が騒ぐもんですから、いったい、西郷って、どんな人間だかひとつ見ておいてやろうって、こう思いましたもんですから、一日あとをつけてみましたんでございます」
「お前が、その西郷という男のあとをつけてみたのかい」
「左様でございます、ただ、薩摩の人が西郷西郷っていうばかりじゃございません。ドコへ行っても、誰に聞いても、西郷はエライ、西郷は大きい、西郷は英雄豪傑だと、西郷の独《ひと》り舞台のようにばっかりいうものですから、今度はひとつ、その西郷どんというのを見てやりたいと思いました」
「どんな奴だ」
「そりゃ、わっしどもが見ても、たしかに凡人じゃございません」
「そうか、ふかし立て[#「ふかし立て」に傍点]の
前へ
次へ
全187ページ中94ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング