かりであるか、また一つの変った悪業の種となるかはわかりません。彼はこの機会にはしなくも、おさな子の本性《ほんしょう》を呼び起して、故郷に帰る心を以て、人間の本性にさかのぼるの発心《ほっしん》を起したものか、或いはこの世の最も罪のないものを捉えて、自分の邪悪のすさびに食糧とするつもりか、そのことはわかりません。
ただ、この際、主膳がこれからひとつ、子供を遊び相手にしてやろうとの心を起したのは、布袋子《ほていし》が、子供に取巻かれたというのが羨《うらや》ましいのでもなく、越後の良寛和尚が、子供に愛せられたのを模倣してみたいというのでもなく、まして、かのお松と、与八とが、武州沢井の奥で、子供らのために、友となっているそれとは、心に於ても、形に於ても、天淵《てんえん》の差あることは勿論《もちろん》なのであります。
しかし、かりそめに主膳が、こんな心を起してみている際に、お絹という女は、お絹という女らしい退屈まぎれの方法を考えているのでありました。
今日は、またひとつ、お芝居にでも出かけてみようか知ら――
これが、この時のお絹の思案であります。芝居見物もいいが、いつも同じ女の子を相手にして見に行くのではつまらない、誰か相当の連れはないかしら。
わかりがよくって、話の面白い連れがあれば、同じ芝居でも、いっそう面白く見られるのだが――そんなものは有りはしない。
誰か当りをつけて、押しかけて行って、ひっぱり出してやろうか知ら。
そういう謀叛《むほん》を考えている一方、神尾主膳もまた、さあ、これからどこへかひとつ、出かけて行ってやりたいものだが、さて、どこへ行こう。これは芝居でもあるまいし、さりとて、もうこの倦怠《けんたい》しきった身体《からだ》のやり場と、えぐりつけられた顔の傷のさらし場とては無い。
こう、同じ家で、同じように倦怠と、退屈のやり場に困っている者が重なれば、相見たがいで妥協が出来そうなものだが、どちらもそこへ気がついて、自分から先に妥協の手をのべようとする者はないらしい。
「まあ、仕方がない、お絹の奴のところへ、当座の退屈しのぎにでも出かけようかなあ、鯨汁のようなもので、度々では鼻につくが。それにあいつ、話の数をたんと持たないから、飽きが来た日には、退屈の上塗りをするようなものだが、仕方がない時は仕方がない――せめて、あいつが碁でもやれるといいんだがな
前へ
次へ
全187ページ中91ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング