》のうちに、一人や二人、無いとはいえまい。
例のお神楽師《かぐらし》にいでたつ一行のうちにも、然《しか》るべき音曲の堪能者《たんのうしゃ》が無いという限りはありますまい。
三
だが、その手は何を弾《ひ》いているのだか、正直のところ、机竜之助にはよくわからない。
しかし、なかなかの手だれ[#「手だれ」に傍点]であることだけはよくわかる。
そうだなあ、お染久松の野崎村のところに、あんな三味線の調子があったっけ――といって、それには限るまい。三味線の調子にもそれぞれ型というものがあって、それをいいかげんのところへ、つぎはぎして、そうして一曲をでっち上げるのだ。まあ、何だって大抵は手本の種はきまったものだ――少し数を聞いていれば、これは新しいというのは、ほとんど全く無いものだ。
しかし、撥捌《ばちさば》きはあざやかだといってよかろう、なかなかの芸人が来ているな。
太夫《たゆう》は語らないで、三味だけが聞える。それは竜之助が聞いて、野崎か知らと思った瞬間もあれば、そのほかの手も連続して出て来る。何がどうしてどこへハマるのだか、竜之助にはわからなくなる。竜之助にわからないのみならず、玄人《くろうと》でない限りは、その弾く手と節の変りを、いちいちそうていねい[#「ていねい」に傍点]に説明するわけにはゆくまいではないか。
ただ、弾き手自身は、よほど三味線そのものに興味を持っているところへ、思いがけなく、その好物を探し当てたものですから、ことに、無聊至極《ぶりょうしごく》に苦しみきっているためでしょうから、ふるいつくように三味にくいついて、自分の知っている、有らん限りの手という手を、弾きぬいて見る気かも知れません。竜之助とても、それを聞いて悪い気持はしない。太棹《ふとざお》は、やっぱりこのくらい離れて聞いた方がいいな、ことに、なまじいな太夫が入らないのがいい、三味線だけがいい――と、多少の好感を持つことができたのは幸いです。
そこで、いつのまにか長煙管もほうり出して、肱枕《ひじまくら》になって、やはり、いい心持で弾《ひ》きまくっている三味線を聞いているところへ、ようやくのことにお雪ちゃんが戻って参りました。
「お待たせ申しました」
「長いじゃないか」
「でも、火をおこしますと、あんまりよくおこって勿体《もったい》ないものですから、これで安倍川《あ
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