散霧消することは今にはじめず、外へ遊びに出るにはこの額の傷が承知しないし、よし額の傷が承知しても、どこへ遊びに行こうという興味も起らないのは、すでに世の遊びなるものを仕尽しているからであります。
 その結果、彼の頼もしい友人たちと企《くわだ》てた大奥侵入の空想も、七兵衛の身を以て虎穴《こけつ》を探って来た報告によれば、どうしてどうして、伊賀流の忍びの秘術を尽したって、容易なことではない――ということを知ってみれば、果ては憮然《ぶぜん》として、苦笑いが、高笑いとなって止むだけのことでした。そうしてみると、もうこの人生で、この男の行楽のやり場というものは一つもない。ところでこうして、手持無沙汰をきわめた閑居のやむなきにいると、お絹という女が、あれでなかなか干渉をする。
 自分は御覧の通りの体《てい》たらくであるのに、主膳のこととなると、酒を飲むことから、外出することにまで干渉する。いっぱし、自分が監督者気取りで納まっているようにも見られる。臍《へそ》が茶を沸かすことといえば、臍が茶を沸かすことに違いないが、それだけまた相当に親切気を見せ、いたわるのだから、今のところ、あの女の手一つに、主膳の家庭味というものが握られて、甚《はなは》だしい酒乱にも至らず、甚だしい放埒《ほうらつ》もない。ともかくも、無意味きわまった閑居を、少しでも維持しておられるのだから、主膳としては、どうしてもあの女を放しきれないでいる。
 さあ、今日あたりは例の足立のなまぐさ坊主でも、碁打ちに来ないかな――と気のついた時分、空中から、唸《うな》りを生じて、自分のながめている前庭の真直ぐ前に、轟然《ごうぜん》として舞い落ちたものがあります。
 何だ――何の騒ぎだ。それは凧《たこ》が落ちたのです。見れば、西の内二枚半ばかりの、巴御前《ともえごぜん》を描いたまだ新しい絵凧が一枚、空中から舞い落ちて、糸は高く桜の梢《こずえ》に、凧は低く木蓮《もくれん》の枝にひっからまって、それを外《はず》そうと、垣の外でグイグイ引くのがわかります。
 凧だな――と思って主膳が、なお窓の上から軒先高くながめると、その外に、空中には紅紫|絢爛《けんらん》、いくつもの、いかのぼり[#「いかのぼり」に傍点]が飛揚していることを知りました。
 字凧、絵凧、扇凧、奴凧、トンビ凧の数を尽し、或るものは唸りを立てて勇躍飛動する、或るものはクル
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