ある人々は別とする――また芸妓であり、女郎でないまでも、社会に存する正当な仕事で、夜業をすべき必要のあるものは別とする。
普通の社会において、普通の家庭において、朝寝、夜更かしというものは男性においてさえも決して自慢にはならない。ましてや女性において、おそらく女性の醜辱《しゅうじょく》の一つとして、朝寝、夜更かしはその最も大なるものの一つとして、数えてもよかろうと思う。
さすがの神尾主膳でさえが、このカンカン照っているお天道様の前に、ぬけぬけと、恥かしい色も更になく、起きぬけの、だらしのない姿をさらしている女の醜態に、目を蔽《おお》わないわけにはゆきませんでした。
といって、主膳には断じて、それを弾劾《だんがい》したり、諷諫《ふうかん》を試みたりする資格はない。このごろこそ、その方面へはあまり足を入れないけれども、到るところの花柳《かりゅう》の巷《ちまた》というところで、自分もこのだらしない雰囲気《ふんいき》の中に、だらしない相手と、カンカン日の昇るのを忘れて耽溺《たんでき》していた経験を、有り余るほど持っている身でありながら――この時、この女の風を見て、不思議といっていいほど強く、醜辱の感を催しました。
ああ、かの女の朝寝は、当然、昨夜の夜更かしを連想する。
昨晩もかの女は外出した。そうして帰りはいつであったか、主膳すらも知らない。
主膳も最初のうち、火の車の時にこそ、あの女の才覚で、どうやらこの所帯を張っていたのだから、その時は、あの女を大切にもしたし、自然、その外出がおくれたりする時には、いらいらもしたが、今は七兵衛のおかげで、懐ろは温かくなっているし、あの女の不良性はもう慣れっこになっているのだから、このごろは、その出入りをさまで気にも留めていなかったが――今朝という今朝は、不思議なほどの醜辱を感じました。
神尾主膳は、入木道《にゅうぼくどう》の快感から、朝寝、夜ふかしの醜辱に、苦々《にがにが》しい思いをして、再び筆を取る気にはなれず、じっと机に肱《ひじ》をもたせて、やはりその苦々しい思いで、眼を据えて、前庭をながめっきりにしておりました。
主膳といえども、この頃は、手持無沙汰に堪えられないものがあるのであります。「黄金多からざれば、交わり深からず」といった頼もしい連中は、多少の黄金を振りまいている間は集まって来るが、その水の手が切れれば、雲
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