弁信さんていう人がいい人なの」
「いい人というわけじゃないけれど、さぞ、あたしを尋ねていることだろうと思うと、あたしも、あの人に逢いたくってたまらないのよ」
「駒井の殿様もいらっしゃるし、白雲先生もおいでになるし、金椎《キンツイ》さんだって悪い子じゃなし、それに、わたしというものもいるのに、それだのになお、お前は、弁信さんという人が、そんなに好きで、みんなをあとにしても、それでも弁信さんに逢いたいの、それほど、弁信さんという人はいい人なの?」
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から面《かお》を出したから、たしか、あの辺にいるのかも知れません」
「富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を隔《へだ》てて罪もない富士山を睨《にら》みました。
「お嬢さん、千鳥の笛を吹いてみましょうか、千鳥の笛をね」
 茂太郎は、兵部の娘のひがみをよそにして、蘆管《ろかん》を火にかざしてあぶり、おもむろに唇頭へあてがって、
「まず大雀《おおじゃく》を吹いてみましょうか」
 千鳥を吹くというから、「しおの山」でも吹くのかと思うと、そうではなく、単調な、物悲しい、尻上りになって内へ引込む連音を吹いて、
「次は中雀《ちゅうじゃく》」
 これもほぼ同じような、単調な連音。
「今度は黄足《きあし》ですよ」
 これは、以前のよりは、ズッと音が高くて強い、けれども、やはり特別の節調があるというわけではなく、誰が聞いてもヒューエヒューエと続けさまに鳴るだけのものです。
 音はそれだけのものですが、不思議なことには、この笛が鳴りはじめてから、海上が少しずつ物騒がしくなってきました。前の大雀というのを吹き終った頃に、墓石の上あたりを低く、いくつもの小鳥が群がって来ました。
 中雀を吹き出してから、それが一層多くなって、ほとほと、茂太郎と、兵部の娘の身辺にまで、まつわるかのように見えましたが、黄足というのを吹いた時分には、あるものは茂太郎の肩の上まで来てとまろうとしました。

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