いるものですから、蛸を食べながら、夕陽の美観に、失われた幻想を、空から仰いで取返しながら、下を見ないで歩いて行くもののようであります。
 こうなってみると、もう南北の区別を知らない、東西の差別もわからない。星を見れば、それはおのずから、わかりそうなものだが、今は方角の観念のために星を見ているのではないから。
「あっ!」
と再び、驚愕《きょうがく》の叫びを立てた時は、その足もとが一尺ほど、潮にひたされているのを発見しました。あわててそれを抜け出そうとした時に、引きつづいて、第二の波が追いかけて来ました。
「あっ!」
 逃げようとする子供の足よりも、追いかけた波の方が早かったものですから、腰から下を、ズブリとぬらしてしまいました。ただ足を洗い、着物をぬらしただけならいいが、よろめく足もとを、引き際の潮がさらったものですから、よろよろよろよろとして、潮に伴われて、なお深い方へ持って行かれてしまったのはぜひもありません。
「あっ!」
 この際、片手には生の蛸《たこ》、片腕には般若《はんにゃ》の面、そのどちらをも、急に手ばなすことをしなかったものですから、よけい、足もとを立て直すのに苦しかったのでしょう――そこへ、すかさず第三の波。
 茂太郎の立ち姿が、もはや水平の上に見えなくなったのも無理はありません。
 見えなくなったのみならず、いつまで経っても浮いて来ないのであります。
 ここで、この子供は、完全に海に呑まれてしまったことがわかります。
 だが、これも、さほど心配するがものはありますまい。今夜は別に暴風というほどでもない、むしろ滅多にはないほどに、海は和《やわ》らかなのであります。
 そうして、山神奇童の茂太郎は、山に入って悪獣毒蛇を友とすることができるように、海に入っても魚介《ぎょかい》と遊ぶことを心得ているのだから、今夜の、この静かな海の中の、どこへ沈められたからといって、豚の子のように、沈みっきりになってしまう気づかいは絶対にありません。
 そのうちに、どこぞへ浮いて来るに相違ないから――どなたも心配をしないで下さい。

         十二

 茂太郎が陥没して、まだ浮き上らないところの地点の、忍冬《すいかずら》の多い芝原に、そんなことは一切知らないで、一人の太った労働女が現われて、
「どっこいしょ」
と言い、重い荷物を背中からドシンと、その芝原の上に卸《おろ
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