く歩けたものだな……ナニ、足はなかなか達者だよ、西郷はあれで、あのズウタイで、乗物に乗らず、わらじばきで、前ぶれもなしにさっさとやって来ては、またいつのまにか帰ってしまう、だから、せっかく西郷に逢いたがっていたものが失望する……失望はいいが、そう軽々しく出歩いた日には、あぶなかろう……そこがつまり、一種の機略だろう……大びらに西郷江戸に来《きた》るとなれば、江戸の天地が、安政の大地震以上に震動するかも知れない……ははあ、薩摩の陪臣《ばいしん》一人が出て来ると、江戸の天地が、安政の地震以上にゆれるとは大仰だ……西郷という男は、それほどエライ男かい、あれも人気者じゃないかな……薩摩というものを背負って、大舞台を睨《にら》んでいるその形に呑まれて、大向うがやんやと騒ぐだけのもので、事実、人気ほどの英雄じゃあるまい――長州の大村、同じ薩摩でも大久保あたりの方が、実力はズンと上だといっている……
 こんな途切れ途切れの言葉を、七兵衛は夢うつつに聞いておりました。
 つまりこの頃、右の薩摩屋敷に、西郷なるものが乗込んで来ているという噂《うわさ》。

         八

 信濃の国、白骨《しらほね》の温泉――
 そこへ、このほど、山の通人が一人、舞込みました。
 もう、これだけ以上には、ここで冬籠《ふゆごも》りをしようというまでのものはないことと、誰しも了簡《りょうけん》しているところへ、山の通人が、同行者を一人つれて、不意に訪れたものですから、新顔が加わって、また新しい話題が湧きました。
 この山の通人は、ツマリこの辺の谷々を経《へ》めぐることにおいては、かなり豊富な知識を持っているらしいから、その経験談は、おのずから炉辺《ろへん》の人を傾聴せしむるに足りるものがありましたが、惜しいことには、この人は少し高慢で、山のことなら自分に限ったものと鼻を高くして、人をさげすむの癖がありましたから、最初は多少尊敬していた人も、うんざりするようになりました。
 しかし、お雪ちゃんは、いつもの通り、よい心だてを以て、この新来のお客に対し、相変らずその持っている知識から、何かの収穫を見ようとする熱心さは、変ることがありません。
 山の通人は、出来星[#「出来星」に傍点]の博士が、小学校生徒に教えるような態度で、見おろしかげんに、
「お雪さん、あなたはこの間の手紙に、ツガザクラの下を歩いたよ
前へ 次へ
全126ページ中47ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング