《だいぼさつ》が、この峰――今でいう大菩薩の峰――の上に一休みしたことがある。
 その姿を見かけると、富士と、八ヶ岳とが、諸声《もろごえ》で大菩薩に呼びかけて言うことには、
「のう大菩薩、下界の人にはわからないが、あなたにはおわかりでしょう、見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召《おぼしめ》す」
 かれらは、その日の力で、有らん限りの背のびをして、大菩薩の方へ向いた。
「おお、お前たち、何をむくむくと動いているのだ。何、背くらべをしている!」
 大菩薩は半空に腰をかがめて、まだ半ば混沌《こんとん》たる地上の雲を掻《か》き分けると、二ツの山は躍起となって、
「見て下さい、わたしたちの身の丈を……どちらが高いと思召す」
「左様――」
 大菩薩は、稚気《ちき》溢《あふ》れたる両山の競争を見て、莞爾《かんじ》として笑った。
「わたしの方が高いでしょう、少なくとも首から上は……」
 八ヶ岳が言う。
「御冗談《ごじょうだん》でしょう――わたしの姿は東海の海にうつるが、八ヶ岳なんて、どこにも影がないじゃないか」
 富士が言う。
「よしよし」
 大菩薩は、事実の証明によってのほか、かれらの稚気満々たる競争を、思い止まらせる手段はないと考えた。
 そこで、※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]杖《しゅじょう》を取って、両者の頭の上にかけ渡して言う、
「さあ、お前たち、じっとしておれ」
 そこで東海の水を取って、※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]杖の上に注ぐと、水はするすると※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]杖を走って、富士の頭に落ちた。
「富士、お前の頭はつめたいだろう」
「ええ、それがどうしたのです」
「日は冷やかなるべく、月は熱かるべくとも、水は上へ向っては流れない」
「それでは、わたしが負けたのですか、八ヶ岳よりも、わたしの背が低いのですか」
「その通り」
 大菩薩はそのまま雲に乗って、天上の世界へ向けてお立ちになる。
 その後ろ姿を見送って、富士は歯がみをしたが及ばない。八ヶ岳が勝ち誇って乱舞しているのを見ると、カッとしてのぼせ上り、
「コン畜生!」
といって、足をあげて八ヶ岳の頭を蹴飛ばすと、不意を喰った八ヶ岳の、首から上がケシ飛んでしまった。
「占《し》めた! これでおれが日本一!」
 その時から、富士と覇を争う山がなくなっ
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