差別がつかなくなりました。仏を信ずるものは往々、魔を信じ易《やす》く、真を語るには仮を捨て難く、事実の裏から想像をひきはなすことは、人生においてなし得るところではないと見えます。
右の武者修行の現に見た物語を緒《いとぐち》として、それから炉辺で語り出されるおのおのの物語は、主として甲州裏街道に連なる、奇怪にして、荒唐にして、空疎にして、妄誕《もうたん》なる伝説と、事実との数々でありましたが、この人たちは皆それを実在として、極めてまじめな態度を以て取扱っているのであります。
これはあながち笑うべきことでも、侮《あなど》るべきことでもありません。つい近代までの学者は、精苦して八十幾つの元素を万有の中から抽《ぬ》き出してみたが、電子というものが出てみると、その八十幾つの元素がことごとくおばけとなってしまいました。
しかもその電子の、過去と、未来とは、白昼の夢のわからない如く、わからないのであります。
二
次にその夜の物語。大菩薩峠伝説のうちの一つ――
富士の山と、八ヶ岳とが、大昔、競争をはじめたことがある。
富士は、八ヶ岳よりも高いと言い、八ヶ岳は、富士に負けないと言う。
きょう、富士が一尺伸びると、あすは八ヶ岳が一尺伸びている。
この両個《ふたつ》は毎日、頭から湯気《ゆげ》を出して――これは形容ではない、文字通り、その時は湯気を出していたのでしょう――高さにおいての競争で際限がない。
そうして、下界の人に向って、両者は同じように言う、
「どうだ、おれの方が高かろう」
けれども、当時の下界の人には、どちらがどのくらい高いのかわからない。わからせようとしても、その日その日に伸びてゆく背丈《せいたけ》の問題だから、手のつけようがない。
そこで、下界の人は、両者の、無制限の競争を見て笑い出した。
「毎日毎日、あんなに伸びていって、しまいにはどうするつもりだろう」
富士も、八ヶ岳も、その競争に力瘤《ちからこぶ》を入れながら、同時に、無制限が無意味を意味することを悟りかけている。さりとて、競争の中止は、まず中止した者に劣敗の名が来《きた》る怖れから、かれらは無意味と悟り、愚劣と知りながら、その無制限の競争をつづけている。
ある時のこと、毎日|晨朝諸々《じんちょうもろもろ》の定《じょう》に入《い》り、六道に遊化《ゆうげ》するという大菩薩
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