して、その長い下緒《さげお》を、口にくわえていました。
それですから、例の菅笠《すげがさ》に合羽、という在来のいでたちとは全く趣を異にするのみならず、今までの七兵衛として、仕事ぶりにおいて、こうまでキリリと用心してかかったことはないようです。つまり一世一代の了簡《りょうけん》が、そのいでたちにまで現われて、今度の仕事は冗談じゃない、という気にもなったのでしょう。
ところで、難なく一の御門の塀を乗越えて、その塀の下をズッと走るとお薬園《やくえん》であります。お薬園の築山の下へ来て、七兵衛の姿が見えなくなりました。
見えなくなったのではない、動かなくなったのであります。鼠のように走って来た七兵衛が、とある木かげへ来て、ピッタリ吸いついてしまいました。
これまで決行するからには、もうあらかじめ城内の案内は、手に取るように頭に入れておいたに相違ない。あらかじめ神尾主膳あたりの手から、江戸城内の秘密図といったようなものを手に入れておいて、要所要所は、悉《ことごと》く暗記しての上からでなければ、こんな仕事にかかれようはずはない。
そこで、お薬園の木蔭にぴったり吸いついた七兵衛は、まず、ちょっと左へ寄ったうしろ、それが二の御門で、その裏が吹上の御庭構え。この門に、番人の気配のないことを見定めて後顧の憂いを絶ち、それから左前面に、こんもりとした紅葉山《もみじやま》をまともに見てから、その眼を右へ引いて行って、これが西丸……その西丸と、紅葉山との間を、七兵衛は暗いところから睨めているらしい。
『御宝蔵』はちょうど、その西丸と、紅葉山との間のところにある。
それと相対《あいたい》した前面が御本丸。ここまで来て見ると、天地の静かなことが案外で、征夷大将軍の城内をおかしたとは思われない。田舎《いなか》の広い鎮守《ちんじゅ》の森にでもわけ入ったような心持で、番人などはいないのか知らと思われる。いても急に出合うような弾力性のではなく、お役御免に近い老朽が、どこぞに居眠りでもしているのだろうとしか思われない。
しかし、何といっても征夷大将軍の本城である、その鷹揚《おうよう》なのに慢心してはならないと、七兵衛も、七兵衛だけの用心をして、容易にそのお薬園の茂みを立ち出でようとはしないらしい。それと一つは、まだ今晩のは瀬踏みに過ぎない。あわよくば進めるところまで進んで、本丸を突き抜いて、
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