々を廻りきれないほどになりました。その苦労は、少しもお松の厭《いと》うところではありません。
 毎日、朝早く沢井を出でては、夜おそく帰ることもあります。
 多摩川を中にさしはさんでの上下へ、水の浸透するように、お松の事業が進んで行くのであります。今は秩父境までも、お松を中心とするの講習会が入り込んで行きました。
 そこでお松は、もうこれ以上、自分の足では覚束《おぼつか》ないという時になって、与八がお松のために馬を提供しました。
 お松は毎日、馬に乗って村里めぐりをやり出しましたが、最初のうちは、与八が馬の口を取ったのですけれど、それでは労力の不経済だから、後にはお松自身で手綱《たづな》を取って、与八は家に残って働くようになりました。
 ただ、例のムク犬が始終、お松の行くところへ行を共にして、その護衛の任に当ることだけは、いつも変りません。
 そのうちに、誰が発起《ほっき》したともなく、月の二十三日を地蔵講として、この日には、お地蔵様を祭って、楽しく遊ぼうではないか、という議が持上りました。
 つまり、お松の教え子たちが発起で、月の二十三日を、挙《こぞ》っての祭日にきめようという計画が、忽《たちま》ちの間に成立って、まず最初の記念祭を、この二十三日に、お松の発祥地で開き、それから至るところに及ぼし、二十三日には、それぞれお祝いをしようではないか、ということが、娘たちの間に、少なからぬ熱心を以て提唱されるようになったのです。
 地蔵中心の二十三日のお祭、お松も、与八も、それはよい思いつきの、よいくわだてだと思いました。与八は、それまでに間に合わせるといって、木をえらんで、一丈余りの地蔵尊をきざむことにとりかかる。
 その地蔵尊が出来上ると、従来のお堂をとりひろげて勧請《かんじょう》し、多摩川の岸までズッと燈籠《とうろう》を立てました。
 娘たちは乗り気になって、それぞれのものを寄附する。燈籠の絵も、讃《さん》も、大抵はその娘たちや、教え子たちの筆に成るものが多いのですから、期せずしてこれは、地蔵を中心としての共進会であり、展覧会であるようなことになります。
 お祭の前には、その娘たちが、それぞれひまを見ては、やって来て、お祭の準備の手伝いをする。
 そこで、また一方、お松は若衆《わかいしゅ》たちに向って後援を依頼したものですから、若衆もいい気持になって、よしよし、一肌《
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