うとするから、
「まあ、お待ちなさい」
 兵馬は脚絆《きゃはん》を結びながら、呼び留める。
「ほんとに、あなた様なればこそ、こんなに御親切にして下さいました、ほかのお方でしたら、わたしはどんな目に逢っていたかわかりません」
「いや、それがかえって仇《あだ》となるようでは、お互いに困るから、気をつけて帰り給え、君の旦那というのが、非常に腹を立っているそうだ」
「そうかも知れません」
「ただいま、浴槽《ゆぶね》で聞いたのだが、昨晩は君の姿が見えないために、総出で探し、どうしてもわからないから、君は駈落《かけおち》をしてしまったものときめているらしい」
「え……?」
「だから、そのつもりでお帰りなさい、事がむずかしければ、拙者が行って、証人に立って上げるから……」
「そうかも知れません。そうだとすれば、わたしは、ヒドい目に逢わなければならないかも知れません。ああ、どうしたらいいでしょう。でも、帰らなけりゃならないわ」
「もし、事が面倒になったら、お知らせなさい」
 驚きあわてて出て行く芸者の後ろ姿を見て、兵馬は笑止《しょうし》の至りに堪えません。
 そこで兵馬は、早立ちをすべきはずのを、わざとゆっくり構え込んで、朝飯を食べました。
 何か苦情が起った際には、あの女のために、証人に立つべき義務があると思ったからです。
 しかし、幸い、別に問題は起らないと見えて、出て行ったきり、音も沙汰もありませんから、話というものは、すべて大仰なものだ、噂《うわさ》によると、あの旦那なるものは、生かすの、殺すのと、騒ぎ兼ねまじき話であったが、なんの、ことなく納まったところで見ると、すべて、女にのぼせる男というほどのものは、のろい[#「のろい」に傍点]者で、女が眼前へ現われて、泣いたり、あやまったりしようものなら、忽《たちま》ち軟化してしまう。その旦那なるものも、忽ちぐんなりと納まったのだろう。それならば結句仕合せであると思いました。
 兵馬は、そのあられもなき艶罪《えんざい》をおそれていたのは、以前紀州の竜神でも、そんなことから、痛くもない腹をさぐられた経験があるので、いささか取越し苦労が過ぎたもののように感じながら、食事を済ましてしまいました。そうして、無事に浅間の宿を立ち出で、松本の市中に入ると間もなく、兵馬は、仏頂寺弥助と、丸山勇仙とが、勢いよく談笑しながらやって来るのを遠くから認め
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