を突ッつけ、また出た鬼熊――との蒲団の中から首を出して騒いでいるのは、その鬼熊が、こちらへ興行に来たのかも知れない。それを聞流しにして、おのれが部屋に戻った宇津木兵馬。
 例の女はまだよく寝ている。眼をさまさせないように、充分寝るだけ寝させておくように、兵馬はなるべく音を立てないで、出立の身仕度にかかりました。
 しかし、兵馬のこの心づかいも忽《たちま》ち無駄になってしまい、女ははからず目をさましました。
 目をさました当座は何でもなかったが、枕ざわりが変だと、それから気がついたのでしょう、急に飛び起きて、
「あら!」
 その驚き加減というものはありません。
 これは気の毒なことをした、と兵馬をしてヒヤリとさせたほどです。
「まあ、わたし、どうしましょう?」
 飛び起きて、そこに脚絆《きゃはん》をつけているところの兵馬を見る。
「まあ、どうして、わたし、こんなところへ来てしまったのでしょう?」
「ハハハハ……」
と兵馬が笑う。女は笑うどころではない、唇まで蒼《あお》くなっている。
「御免下さいまし、ほんとうに済みません」
「いや、いいですよ、ごゆっくりお休みなさいまし」
「存じませんものですから……」
 女は飛び起きて、なりふりを直しにかかると、兵馬は、
「みんな、大へん心配したそうですよ」
「ああ、わたしとしたことが……つい酔ったものですから、あなた様にも、どんな失礼をしたかわかりません」
「不意にここへ君が来たものだから、多分、部屋違いだろうと思って、帰るように忠告したのだが、君がきかない」
「ああ、悪うございました」
「君がきかないでいるうちに、ここへ、この畳の上へ寝込んでしまうから、見兼ねて、拙者が起しに来ると、早くも拙者の寝床を奪って、君が寝てしまった」
「済みません、済みません」
「その時、無理にでも起せば起すのだったが、それほど眠いものをと気の毒に存じ、そのままにして、君をそこへ寝かしておいて、拙者はここへゴロ寝をしてしまったよ」
「ま、何という失礼なことでしょう、これというのもお酒のせいです、もう、わたし、これからお酒をやめます、一滴もいただきませんから、どうぞ御勘弁下さいまし」
「酒は、やめた方がいいな……」
「のちほど、またお礼に出ますから……」
と、なりふりを直した女は、蒼《あお》くなって恐れ入ったり、恥入ったり、ほとんど前後も忘れて、駈け出そ
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