は祝すべきことでありますが、一生の事は必ずしも、そう単純には参らない。大悟十八遍、小悟その数を知らずと、東妙和尚もよくいうことでありますが、今のところは、ほとんど逆転の憂いがないと見なければなりません。
さればこそ与八のわからないお経も、ようやく妙境に入って、聞く人をしておのずから、神心を悦嘉《えつか》せしむるのかも知れません。
しかしながら、こんな悦楽が、人間世界の夜の全部を占領するのは、悪魔の世界のねたみを受けるには十分であると見え、暫くして、この悦楽の世界が、忽《たちま》ちにしてかきみだされたのは是非もないことでしょう。
「与八さん、エ、与八さん、エラク御精が出るじゃねえか、いいかげんにしなよ、いいかげんにして寝なよ、身体《からだ》も身のうちだ、そうひどく使うもんじゃねえよ、ちっとは、身体にも保養というものをさせてやらなけりゃ毒にならあな、いいかげんにしなよ、え、ヨッパさんたら、ヨッパさん」
経文を誦《ず》しながら藁《わら》を打っている与八の境涯をかき乱した声が、お松のところまで手に取るように聞えたものですから、お松もハッとして苦《にが》い心持になりました。
「いいかげんにしなよ、いいかげんにして、一ぺえ飲んで寝なよ……」
しつこく与八のそばへすりよって、とろんとした眼を据《す》えている酔いどれの姿を、ありありと見る気持。
「だが、与八さん、おめえは感心だよ、おめえの真似《まね》はできねえ……まあ、早い話がおめえは聖人だね、支那の丘《きゅう》という人と同格なんだね、聖人……大したもんだよ、だが、聖人にしちゃあおめえ、少し間《ま》が抜けてらあ……」
「なあに」
与八は相手にならないで、藁をすぐっているらしい。
「だが、おめえ、聖人なんて商売は、聞いて極楽、見て地獄さ」
与八が相手にならないでいると、一方は、いよいよしつこく、
「こちとら、やくざだから、聖人なんざあ有難くねえ」
といって暫く休み、いやに猫撫声《ねこなでごえ》で、
「ヨッパさん、おめえ済まねえが、いくらか持っていたら貸してくんねえか……」
お松はそれを聞いて、またはじまったと思いました。
梅屋敷の谷という船頭が、いつも、こんなことを言って与八をばかにしながら、いくらかせびりに来る。その度毎に与八が、ダニに食いつかれた芋虫《いもむし》のように窘窮《きんきゅう》するのを、ダニがいよいよ面
前へ
次へ
全126ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング