ると、兵馬をして全く失笑せしめる。
 ゆうべ、女に逃げられたと気がついた旦那なるものの、血眼《ちまなこ》になって、あわて出した挙動というものが、三助の口によって、本気の沙汰《さた》に聞えたり、冷かしにされたり、さんざんなものとなる。
 ははあ、眠るということは大した魔力だ。白隠和尚は船の中で眠って、九死一生の難船を知らなかったというが、自分は眠ってしまったから、昨晩あれからその旦那なるものの、うろたえ加減、血迷い加減、また上を下へと、その逃亡芸者を探しまわった人たちの狂奔《きょうほん》というものを、全く知らなかった。
 聞くところによると、その旦那なるものは、半狂乱の体《てい》で、自分が先に立ち、人を八方に走らせて、くだんの芸者の行方《ゆくえ》を探索させたのだそうな。お義理で、ここのうちの雇人たちも、朝まで寝られなかったとのこと。
 しかし、その結果は絶望で、可愛ゆい芸者の行方は、どうしてもわからない。
 手のうちの珠《たま》をとられた旦那というものの失望落胆は、ついに嫉妬邪推に変って、誰ぞ手引をして、逃がした奴があるに違いない、そうでなければ、これほど手際よく行くはずがない――見ていろ、と自暴酒《やけざけ》を飲んで、焦《じ》れているということ。
 兵馬は浴衣《ゆかた》を手に通しながら、苦笑いを禁ずることができません。

 兵馬は異様な心持で、浴室から自分の座敷へ帰ろうとするその廊下の途中で、また一つの座敷から起る噪音《そうおん》に、驚かされてしまいました。
 その座敷の中で、俄《にわ》かに唄《うた》をうたい出したものがあるのです。多分それは寝床の中にいて、宿酔のまださめやらない御苦労なしの出放題《でほうだい》だと思われますが、
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ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
そっちを突ッつけ
こっちを突ッつけ
そっちでいけなきゃ
こっちを突ッつけ
こっちでいけなきゃ
そっちを突ッつけ
ヤレ出た、鬼熊
ソレ出た、鬼熊
ヤレソレ、鬼熊
ドッコイ、キタコリャ
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 図抜けた声で唄い出したものがありましたから、通りかかった兵馬が、その声に驚かされたのです。しかし、兵馬は、ただ驚かされただけではなく、その早朝からばかばかしい図抜けた声に、何か聞覚えがあるように思われるのも、いっそう兵馬を驚かしたことに力があったかも知れません。
 さりとて、わざ
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