いの早業《はやわざ》で、消えてなくなったわけではなく、窓から身をおどらして、室外へ飛び出してしまったのです。
 ほどなく洲崎鼻《すのさきばな》の尽頭《じんとう》、東より西に走り来れる山骨《さんこつ》が、海に没して巌角《いわかど》の突兀《とっこつ》たるところ、枝ぶり面白く、海へ向ってのし[#「のし」に傍点]た松の大木の枝の上に、例の般若の面をかぶって腰うちかけ、足を海上にブラ下げた清澄の茂太郎。
 北の方《かた》、目近《まぢか》に大武の岬をながめ、前面、三浦三崎と対し、内湾《うちうみ》と、外湾《そとうみ》との暮れゆく姿を等分にながめながら、有らん限りの声を出して歌いました。
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万木《ばんぼく》おふくが通るげで
五百|雪駄《せった》の音がする
チーカロンドン、ツァン
正木《まさき》千石
那古《なこ》九石
那古の山から鬼が出て
鰹《かつお》の刺身で飲みたがる
チーカロンドン、ツァン
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 このところより、遠見の番所はさまで遠いところではない。
 あの座敷にいた岡本兵部の娘の耳には、明らかにこの歌の音が聞き取れる。歌の音が聞えるばかりではない、ちょっと身をかがめさえすれば、いま出て行った窓のところから、明らかにこの竜燈の松と、その枝の上に身を置いて、海洋の上に高く足をブラ下げながら、対岸三浦三崎のあたりを眼通りにながめて、あらん限りの声をしぼってうたうその人の姿を、まるで手に取るように、ながめることができるのであります。
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弁信さん
お前は知らない
あたしが
どこにいるか
お前には
わからないだろう
海は広く
山は遠い
向うにぼんやりと
山と山の上に
かすんで見えるのは
富士の山
甲州の上野原でも
あの塔の上では
富士の山が
見えたのに
弁信さん
お前の姿が見えない
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 清澄の茂太郎は、こういって歌いました。いや、これは歌ではない、単純明亮《たんじゅんめいりょう》に山に向って呼びかけた言葉に過ぎないけれど、茂太郎が叫ぶと、韵文《いんぶん》のように聞える。

 清澄の茂太郎は今、般若の面を小脇にかいこんで、砂浜の間を、まっしぐらに走り出しました。
 その時分、ちょうど、西の空は盛んに焼けて赤くなり、ところによっては海の水さえが、紅を流したようになりました。夕焼けのために空が赤くなり、従っ
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