ら街頭へ出た時はあぶない。
 例えば、ありとあらゆる飲食物を、滅茶苦茶に掻《か》きまぜてみたところで、それを悉《ことごと》く食い尽してみたところで、後で多少料理番を狼狽《ろうばい》させるだけのことで、取返しのつかない欠陥というものは残らないはずであります。闖入者がいかにこの場で蹂躙《じゅうりん》をほしいままにしても、それは結局、この金椎《キンツイ》の平和なる仮睡をさえ破ることなくして終るのだからツミはない。
 果して、いくばくもなく、胃の腑を充分に満足させた闖入者は、げんなりとして、人のよい顔をし、充ち満ちた腹をゆすぶって、四方の隅々までジロリジロリと見廻しました。
 ほんとうに人のよい顔です。十九年ツーロンの牢にいた罪人は、こんなおめでたい顔をしてはいなかった。食に充ち満ちた闖入者は、炉にあった鉄瓶を取って、その生ぬるい湯をガブガブと飲む。
 そこで、またも念入りに金椎の寝顔を見てニッコリと笑ったが、これとても、好々たる好人物の表情で、この時、「お前、何をしているの、食べてしまったら、サッサと膳をお洗い……ほんとにウスノロだね」とおかみさんにでも怒鳴られようものなら、一も二もなく、「はい、はい」と恐れ入って、流し元へお膳を洗いに行く宿六《やどろく》の顔にこんなのがある。
 しかし、金椎はまだ眼がさめない。そこで、人のよい闖入者《ちんにゅうしゃ》はいよいよ、いい気持になって、深々と椅子に腰をおろして、ついに懐中からマドロスパイプを取り出してしまいました。
 パイプに、きざみをつめて、炉の中の火をかき起そうとした時、闖入者は、ハタと膝を打ちました。膝を打った時は無論、パイプは食卓の上に載せてあったので、彼はここで、食後の一ぷくをやる以前に、忘れきっていた重大な一事を思い出したかに見ゆる。
 そこで、パイプも、火箸《ひばし》も、さし置いて、彼は立ち上り、よろめいて、そうして戸棚のところへ行って、その戸棚を慎重にあけて、そうして、以前よりはいっそう人のよさそうな顔を、ズッと戸棚の中につき込み、あれか、これかと戸棚の中を物色したものです。
 繰返していう通り、これは盗みを目的として来たのではない。眼前口頭の飢えが満たされさえすれば、暗いところをのぞいて見る必要は更になかるべきはずだが、かく戸棚の隅々を調べにかかったのは、衣食足って礼節を知る、という段取りかも知れない。果して
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