来るはずもない。こういう姿を、この際見るのは、降って湧いたようなものだが、何事の詮索《せんさく》よりも急なのは、飢えである。彼はガブリガブリとあらゆる食物を、手当り次第に食っている。ただ食うのではない、アガキ貪《むさぼ》り、ふるいついて食っている。
単に、この部屋にありとあらゆる食物といってしまえばそれだけのものだが、その材料は、金椎としては、かなりに苦心して集めたもので、またすべて苦心して調味を終えたものもあり、苦心してたくわえて置いた調味料もある。
それを、この闖入者は無残にも、固形のものは悉《ことごと》く食い、液体のものは悉く飲むだけの芸当しか知らないらしい。それを片っぱしから取って、胃の腑《ふ》に送りこむだけのことしか知らないらしい。
今日は、あれとこれを調合し、主客の味覚をいちいち参考とし、明日に持越さないだけの配分を見つもり、その秩序整然たる晩餐の準備が、眠れる眼の前で、無残にも蹂躙《じゅうりん》され、顛覆《てんぷく》されている。それを、全然知らない金椎もまた悲惨であるが、飢えのために、この料理王国のあらゆる秩序を蹂躙し、顛覆せねばならぬ運命に置かれた闖入者の身もまた、悲惨といわねばならぬ。
その壁間にかかぐるところ、支那料理法の憲法なる「随園食箪《ずいえんしたん》」には何と書いてある。試みに田山白雲が圏点《けんてん》を付してあるところだけを読んで、仮名交り文に改めてみてもこうである、
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「凡《およ》ソ物ニ先天アル事、人ニ資禀《しひん》アルガ如シ。人ノ性下愚ナル者ハ、孔孟|之《これ》ヲ教フト雖《いへど》モ無益也。物ノ性|良《よろ》シカラズバ、易牙《えきが》之ヲ烹《に》ルト雖モ無味也……」
又|曰《いわ》く、
「大抵一席ノ佳味ハ司厨《しちゅう》ノ功其六ニ居リ、買弁ノ功其四ニ居ル……」
又曰く、
「厨者ノ作料ハ婦人ノ衣服首飾ナリ。天姿アリ、塗抹ヲ善クスト雖モ、而《しか》モ敝衣襤褸《へいいらんる》ナラバ西子《せいし》モ亦《また》以テ容《かたち》ヲ為シ難シ……」
又曰く、
「醤ニ清濃ノ分アリ、油ニ葷素《くんそ》ノ別アリ、酒ニ酸甜《さんてん》ノ異アリ、醋《す》ニ陳新ノ殊アリ、糸毫《しごう》モ錯誤スベカラズ……」
又|曰《いわ》く、
「調剤ノ法ハ物ヲ相シテ而シテ施ス……」
又曰く、
「諺《ことわざ》ニ曰ク、女ヲ相シテ夫ニ配スト。記ニ曰ク
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