たから……その後の噂《うわさ》は、大菩薩峠を越える人毎に、何かとわたしたちの耳に伝えてくれます。いい話じゃありませんが、おさななじみのわたしどもにとってみると、どうもひとごととは思われない気がします」
 雲衲の一人は、しめやかに昔を追懐して、道を誤った幼き友のために、代ってその罪を謝するかのような調子です。
「なるほど、なるほど」
 武者修行の武士は、洒然《しゃぜん》としてそれを聞き流し、
「宇津木なにがしを殺したことから以後は、ほぼわれわれも聞いている、それ以前が知りたかったのだ。つまり、机竜之助というものがああなったのは、宇津木を殺した時から始まるのか、或いはそれ以前に原因があったのか、その来《きた》るところを、もう少し立入って知りたかったのが、貴僧の話で、どうやら要領を得たような感じがする……」
 その時に、以前の雲衲の一人は、長い火箸で燼《もえさし》の火をあやしながら、
「左様でございますよ、天性あの人はああいう人でありました。宇津木文之丞さんとの試合以前、つまり、トビ市を殺してから後の壮年時代にも、いま考えてみれば、山遊びに行くといって、幾日も帰らないことがありました。その前後、よく街道筋に辻斬の噂なぞがありましたが、いま思い合わせてみると、あの山遊びは、つまり辻斬をしに行ったのではなかったでしょうか……ですから、あの人の一番最初の不幸は、お父さんの病気でありまして、次にガラリと変ったのは御岳山の試合の前後……あれは文之丞さんが相手ではありません、あれをああさせた裏には、悪い女がありました」
「うむ……」
「お聞きになりましたでしょうな。あれだけは今以て、わたしたちにも不思議でなりません。本来、竜之助さんという人は、女に溺《おぼ》れる人ではなかったのです、剣術より以外には振向いて見るものもなかったのに、あの女が来て、それからあんなことになりました。どっちが先に、どう落ちたのか、その辺がいっこう合点《がてん》が参りませんが……いい女でした。それはたしかに、知っていますよ。和田へ行く時も、このお寺の門前を馬で、大菩薩峠越えをしたものです、そのときふりかえった面影《おもかげ》が、いまだに眼に残っておりますよ、妙にあだっぽい、そうしてキリリとしたところのある、あれでは男が迷います」
「なるほど」
と一句、壮士が深く沈黙した時分、雲峰寺の夜もいとど深きを覚えました。
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