たもの。
わたしは沼へでも遊びに行って、この気散じを致しましょう……」
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十二
炉辺の閑話に蚊話《かばなし》が持上った時、その最後に、楽翁公の寛政改革について大いに意気を揚げ、蜀山人《しょくさんじん》を罵《ののし》る者がありました。
楽翁公が大いに文武を奨励して、士風堕落をもり返そうと企てられたのを、「か」ほどうるさきものはなし、「ぶんぶ」といいて夜もねられず、とは何事だ。
徳川中興以後、松平楽翁だの、水野越前だの、問題ではあるが井伊掃部《いいかもん》だのという、名望と、手腕とを、備えた政治家が出でたればこそ、今日まで持ちこたえたのである。
政治家は、もとより民衆の友ではあるが、人間の下劣な雷同性におもねるような政治家は、世を毒すること、圧制家よりも甚《はなは》だしい。蜀山という男は、微禄ながら幕府の禄を食《は》む身分でありながら、一代の名政治家を蚊にたとえるとは言語道断である。あの堕落、阿諛《あゆ》、迎合、無気力を極めた田沼の時代でさえ、
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世に逢ふは道楽者におごりものころび芸者に山師運上
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となげいた市民には、まだ脈がある……
それから問題が一転して、この席へ、お雪の姿が見えないという不審がみな一致しました。
お雪は誰にも心安く、誰にも愛され、誰の話をも身を入れて聞きたがることにおいて、この一座には欠くべからざる人気を持っておりました。今晩に限って、その人が顔を見せないことだけでも、炉辺を非常な淋しいものにすると見えて、
「お雪さんは、どうしました?」
誰いうとなく、その叫び声が繰返されたけれど、いつまで経っても、その人が姿を見せません。
「お雪さん……?」
「どうしましたか、病気にでもなりゃしませんか?」
「いいえ……病気でもないようですが……」
「今朝から、あの人の姿が見えませんよ」
「いいえ……今朝早く、ねまきのまんまで無名沼《ななしぬま》の方へ出て行きました」
「え、あの子が一人で無名沼へ……ほんとうですか?」
早くも顔の色をかえたものがあります。あの出来事以来、無名の沼を、魔の池のように恐れている者がある。
「そうして、無事に帰りましたか?」
「え、帰るには帰ったでしょう、さきほど、部屋で手紙を書いているのを見たという者がありますから……」
「
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