いのだか、間が抜けたのだか、わからないものですから一座があっけに取られ、やがてドッと笑い崩れました。たたかれた山案内のデコボコ頭がおかしかったからでしょう。
それについて……仏典にこんな話がある。印度に一人の馬鹿野郎があって、ある時、親爺《おやじ》の額《ひたい》へ蚊がとまったのを退治てやるつもりで、有合せた丸太ン棒を取り上げ、馬鹿野郎のこととて、力をこめて親爺の額にとまった蚊をなぐったものだから、親爺もろともにナグリ殺してしまった……この話で一座がまた笑い崩れました。
そこで、蚊の話が一座の話題の興味になると、例の一茶びいきの俳諧師が、
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蚊一つに施し兼ねしわが身かな
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これは一茶らしい主観があっていい。皮肉にも、慈悲にも、同様に取れるところが一茶の身上《しんじょう》である。
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閑人《ひまじん》や蚊が出た出たと触れ歩き
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も自然のウイットがあって面白い。たくまずして気の利《き》いた状景をとらえたところが眼に見るようである。それに比べると、蜀山人《しょくさんじん》が、松平定信の改革を諷して、
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世の中に蚊ほどうるさきものはなし
文武といひて夜も眠られず
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は、露骨にして、下品で、野卑だ。
松平楽翁ほどの名政治家の改革ぶりを、蚊にたとえて、御当人得意がっているところが、自身の薄っぺらな腸《はらわた》を見せつけているようでイヤだ、という者もありました。
その通り……いったい、今のやつらはそれよりも、もっと皮肉が下等で、諷刺《ふうし》が糠味噌《ぬかみそ》ほども利かない。蜀山人などは江戸ッ子がって、ワサビのように利かしたつもりだろうが、その利かせるつもりが、鼻についていけない。
本当の諷刺や、皮肉は、自然にして、温雅にして、同情があって、洞察があって、世間の酸《す》いも甘いもかみ分けて、それを面《かお》にも現わさず、痒《かゆ》いところへ手が届きながら掻《か》かず、そうしてその利《き》き目が、時間がたつほど深刻に、巧妙に現われて来るものだが……本当の諷刺家がいないのは、つまり本当の批評家がいないのだ、というような議論になって、蚊一つの問題から、炉辺が異常なる緊張を示したのも、時にとっての一興でありました。
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