何の返事もなく、螢のような真蒼《まっさお》な面《かお》をしてゆきすぎてしまったことを。
あれから今日で三日目です。浅吉さんが帰りません――いいえ、帰りました。帰りましたけれど驚いてはいけません、あの人は、とうとう死んでしまいましたのよ。
それが、どうでしょう、ところもあろうに、あの無名沼の中で……捜して引き上げて来た人たちの話によると、まあ、わたし、どうしていいかわからなくなります。丁度、わたしが立っていた離れ岩の下の、絹糸のような藻の中に、浅吉さんの死体が、絡《から》まれて、水の中へ幽霊のように、浮いたり、沈んだりしていたということです。
ああ、それでは、わたしが人の死骸と思ったのは、あの人が沈んでいたのではないか、わたしの見たのは、自分の影が映ったと見たのが誤りで、最初、驚かされた幻《まぼろし》のような姿が、かえって本当ではなかったでしょうか。わたしは今、自分で自分の頭がわからなくなりました。もし、最初に見た水の中の幻が、ほんとうに浅吉さんの死骸だったとすれば、後の笹原で行きあったあの人は誰でしょう――わたし、これを書きながら怖くなってたまりません。
確かなのですよ、わたしがあの笹原でパッタリと蒼い面をした浅吉さんに行きあったことは。決して嘘ではありませんのよ。
『浅吉さん、鐙小屋《あぶみごや》へですか』
ですから、わたしは、そういって言葉をかけたのですが、それに返事のなかったことも確かです。そうして振返って見た時分には、かなり広い笹原のどこにも、あの人の姿が見えなかったことも本当なのです。
わたし、なんだか、自分までが、この世の人でないような気持がしてなりません。
三日の間、水につかっていた浅吉さんの姿は、蝋《ろう》のように真白なそうです。
連れて来て宿の一間に眠るように休んでおいでなさるそうですけれども、わたしには、どうしても今見舞に行く勇気がありません。なんでも人の話には、水には落ちたけれども、あの人は一口も水をのんではいなかったそうです。で、岩の上で転んでどこかを強く打って、気絶してから水に落ちたんだろうなんて、皆さんが噂《うわさ》をしています。けれども、わたしには、どうしても怪我とは思われません。覚悟の上の死に方です。あの人が死のうと覚悟をしたのは今に始まったことじゃありませんもの……それは、わたしだけが、よく知っています。ですから、あの人が怪我で水に落ちたとは、どうしても思われません。それにしても水を一滴も飲んでいなかったというのが変じゃありませんか。
弁信さん。こういいますと、あなたはきっと、それではなぜ、あの時に引留めなかったとおっしゃるでしょう。
わたしも今になっては、重々それを済まないことと思いますが、あの時の、わたしには、とてもそれをするだけの勇気がなかったことは、前に申し上げた通りなのです。なんにしても、浅吉さんはかわいそうなことをしました。
憎らしいのはあのお内儀《かみ》さんよ。
大勢して、浅吉さんの行方《ゆくえ》を心配して、捜し廻っている間に、平気でわたしのところへ遊びに来たりなんぞして、いよいよ浅吉さんが水に落ちていたという知らせがあった時、わたしの面《かお》を見て嘲笑《あざわら》うような、安心したような、あの気味の悪い面つき。
その時こそ、わたしはあのお内儀さんを憎いと思わずにはいられませんでした」
[#ここで字下げ終わり]
それから二三日経って、お雪はまた弁信への手紙を書き続ける。
[#ここから1字下げ]
「弁信さん――
この二三日、わたしは夢のような恐怖のうちに、暮してしまいました。
それでも毎日、近所の山へ葬られた浅吉さんのお墓参りを欠かしたことはございません。
それだのに、あのお内儀《かみ》さんという人はどうでしょう。使い古し[#「古し」に傍点]の草履《ぞうり》を捨てるのだって、あれより思いきりよくはなれますまい。
わたしが、あのお内儀さんを憎いと思ったのは、そればかりじゃありません。昨日《きのう》のことですね、二人でお湯に入っていると、わたしの身体《からだ》を、あの叔母さんがつくづくと見て、
『お雪さん、あなたのお乳が黒くなっているのね』
というじゃありませんか。
その時、わたしは、乳の下へ針を刺されたように感じました。
弁信さん。
あなただから、わたしはこんなことまで書いてしまうのよ。お乳が黒くなったというのは、娘にとっては堪忍《かんにん》のならない針を含んでいるということを、あなたも御存じでしょうと思います。
わたし、ちっとも、そんな覚えがありません。あろうはずもないじゃありませんか。それだのに、こういう意地の悪いことをいう、叔母さんの舌には毒のあることをしみじみと感じました。何の身に暗いこともないわたしも、その時は真赤になって、返事ができませんでした。もうこの叔母さんとい
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