職工が、殿様呼ばわりをする。
そこで、駒井は和吉の先導で、船の船梁《ビーム》を見て廻る。その前後、日本唯一の西洋型船大工の棟梁《とうりょう》といわれた上田寅吉の伝えを受けて、加うるに駒井甚三郎の精到な指導監督の下に、工事を進めているこの船。造船台の形、マギリワラの据付け、首材《ステム》の後材《スダルンポスト》の建て方、肋材《フレーム》を植えて、今や船梁《ビーム》の取付けにかかっているところ。
駒井は仔細にそれを検分して、なお外板の張り方、コールターの塗り方等に二三の注意を与え、次に蒸気の製造と、大砲の据えつけについて、その位置、運搬の方法等に、委細の指図と相談とを試み、
「蒸気の製造法が難物だ――今、苦心している。うまくゆくか、どうか、試運転の上でなければ何ともいえない。測量器械のいいのを欲しい、遠眼鏡も欲しい。誰かお前の知っている人で、適当の機械師はないか、材料はこちらで何とかする、腕だけ貸してくれればいい……」
フレームを叩いて、船と、人とを吟味している駒井は、さいぜん、愛の、信仰のと、写していた人とは別人の観がある。
全くこの造船所へ来ると、駒井甚三郎は別人の観があります。
第一、その眼つきからして違ってきます。熱心そのもののような輝きを集めて、船そのものを一つの有機体として、広い意味の有機体には違いがないが、精到なる彫刻家が、自分の一点一画を凝視《ぎょうし》するように、凝視してはそれに鑿《のみ》を加えて、また退いて見詰めるように、見ようによっては、一刀三礼《いっとうさんらい》の敬虔《けいけん》を以て仏像を刻む人でもあるように、駒井というものの全部が、船というものに打込まれてゆく熱心ぶりは、心なき工人たちをも動かさないわけにはゆきません。
「殿様は大工になっても、立派に御飯が食べられます」
といって工人たちが感心する。事実、その通りで、学理の説明と、工事の指導だけでは我慢がしきれなくなって、駒井は自身ハムマーを取り、斧を揮《ふる》って終日、働き暮すことさえあるのです。
そこで、ここに働く人々とても、本職の船大工と、機械師は、二三人しかない。あとはみんなこの辺の素人《しろうと》であるのを、駒井が仕立てて立派なその道の大工であり、職工であるように使いこなしている。
のみならず、船の外形の工事と共に、その心臓をなす動力の問題、蒸気の製造という難物を、彼は退いて研究し、今やそれをなしとげようとしている。こればかりは親しく外遊して学ぶにあらざれば不可能、といわれている蒸気の製造を、駒井は自分の学問と、従来の経験とで、必ず成し遂げて見せるとの自負を持っている――それに比ぶれば大砲の据付けの如きは、易々《いい》たる仕事ではあるが、すべてにおいては、この事業、すなわち、駒井甚三郎の独力になるこの西洋型の船の模造は、模造とはいうが、事実は創造よりも難事業になっている。
その難事業がともかくも着々と進んで行くのを眺めることは、この上もない興味であり、勇気であり、神聖であるように思わるる。
だから駒井は、ここへ来て、事に当ると、その事業の神聖と、感激に没入して、吾を忘れるの人となることができる。
それと、もう一つ――駒井をして、この自家創造の船というものに、限りなき希望と、精神とを、打込ませるように仕向けているのは、見えない時勢と、人情との力が、背後から、強く彼を圧しているのです。
駒井は、今の日本の時世が、行詰まって息苦しい時世であり、狭いところに大多数の人間が犇《ひしめ》き合って、おのおの栗鼠《りす》のような眼をかがやかしている時世であることを、強く感じている。
国民に雄大な気象が欠けており、閑雅なる風趣を滅尽しようとしている。他の大を成し、長をあげるというような、大人らしい意気は地を払って、盗み、排し、陥れようとの小策が、幕府の上より、市井《しせい》のお茶ッ葉の上まで漲《みなぎ》っている。
創造の精神が滅びた時に、剽窃《ひょうせつ》の技巧が盛んになる。このままで進めば、日本国民は、挙げて掏摸《すり》のようなものとなってしまい、掏摸のような者を讃美迎合しなければ、生活ができなくなってしまう。その結果は、国民挙げて共喰いである……心ある人が、こういう時世を悲憤しなければ、悲憤するものがない。だが、幸いにして駒井甚三郎は、この時世を充分に見ていながら、病気にもならず、憤死することもないのは、要するに、前途に洋々たる新しい世界を見、その世界に精進《しょうじん》する鍵を、自分が握っているとの強い自信があるからです。
その洋々たる新世界とは何――それは海です。海は地球表面の七割以上を占《し》めて、しかもその間には国境というものがない。
その鍵とは何――それはすなわち船です。
この日本は美国ではあるが、この美国を六十に
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