お嬢さんの似顔を描きましたね」
「お嬢さんの?」
「ええ」
「どこのお嬢さん……」
といって、十四世紀の絵画を眺めていた田山白雲が、自分の画帳の上に眼を落すと、そこには、房州の保田の岡本兵部の家の娘の姿が現われておりました。
「これはおじさん、保田の岡本のお嬢さんの似顔でしょう、それに違いない」
「うむ、どうしてお前、それを知っている」
「あたいのお嬢さんですよ」
「お前も、保田の生れかね」
「そうじゃありませんけれど、これは、あたしのお世話になったお屋敷のお嬢さんです」
「ははあ」
 田山白雲は、何かしら感歎しました。
「お嬢さんは、あたしに逢いたがっているでしょうね、あたしが弁信さんに逢いたがっているように。そうして、おじさん、お嬢さんは、あたしのことを何とか言わなかった?」
「左様……」
 白雲は、別段この少年へといって、あの娘から言伝《ことづ》てられた覚えもない。
「お嬢さんが、あたしに初めて歌を教えてくれたのよ、それからあたしは歌が好きになってしまったのよ」
「なるほど」
 そこで、田山白雲が、その時の記憶を呼び起して、あの晩、岡本兵部の娘が羅漢《らかん》の首を抱いて、子守歌を唄ったのを思い出しました。その時、白雲も胸を打たれて、この年で、この縹緻《きりょう》で、この病と、美しき、若き狂女のために泣かされたことを思い出しました。
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ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条長田《なんじょうおさだ》へ魚《とと》買いに……
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 清澄の茂太郎は、その時、何に興を催したか、行燈《あんどん》の光をまともに見詰めて、この歌を唄いはじめると、田山白雲は何か言い知れず淋しいものに引き入れられる。
 そうだ、あの時、岡本兵部の娘は、石の羅漢の首を後生大切《ごしょうだいじ》に胸に抱えて、蝋涙《ろうるい》のような涙を流し、
「ねえ、あなた、この子の面《かお》が茂太郎によく似ているでしょう、そっくりだと思わない?」
 その首を自分の机にさしおいたことを覚えている。
 してみれば、あの狂女と、この少年の間に、何か奇《く》しき因縁《いんねん》があるに違いない。そこで白雲も妙な心持になり、
「杭州《こうしゅう》に美女あり、その面《おもて》白玉《はくぎょく》の如く、夜な夜な破狼橋《はろうきょう》の下《もと》に来って妖童《よ
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