に侍《かしず》くこと、至れり、尽せりの有様です。
 ところが、この絵描きは、豪傑の資質を備えていて、女軽業の美人連もうかとは狎《な》れ難いものがある。ことに親方からは絵の先生だと言い渡されていたのに、この先生は絵をかかないで、横文字を書いている。
 ある時、当番の美人連の一人が、怖る怖る傍へ寄って来て、
「何をお書きになっていらっしゃいますの?」
「ドロナワだよ」
 この返事で二の句がつげないでいると、白雲先生は、
「ドロナワといって、つまり、泥棒を捉まえて縄を綯《な》っているんだ」
「へえ……」
 女は思わず白雲の手許を覗《のぞ》き込むようにしましたが、別段、縄らしいものも見えず、相変らずクチャクチャと横文字を書いているから、一切わけがわからないで、
「縄をお綯いなさるなら、麻を持って参りましょうか?」
と続いて、怖る怖る伺いを立てると、白雲が釣鐘のような大きな声で、
「あ、は、は、は……」
と笑い出したので、忽《たちま》ち吹き飛ばされてしまいました。
 吹き飛ばされた美人連の一人は、両国橋の楽屋へ来て吐息をついて、
「いけないのよ、嘘よ、あんな絵描《えか》きがあるもんですか、ありゃ豪傑ですよ」
「どうして?」
「泥棒を捉まえるんですって」
「そうなの、わたしも訝《おか》しいと思った、絵描きだ、絵描きだ、といって、ちっとも絵を描かないじゃありませんか」
「絵描きじゃないのよ、親方も変り者だから、あんなことをいって、仮りに絵描きとして世話をして置くんでしょう、ほんとうは豪傑なのよ」
「わたしも、豪傑だろうと思ったのさ」
「だからね、わたしたちじゃお歯にあわないから、力持のお勢さんを、あのお客様の接待係専門にしてしまおうじゃないか」
 こんなことをいって、力持のお勢さんがちょうど、当番の日。
 この日、白雲は、どこかでローマ字綴りの仮名《かな》をつけたのを、半紙へ幾枚か墨で書いてもらって来て、それを練習している。その時分、市内を訊《たず》ぬればしかるべき蘭学や、英語の塾はあるべきはず。それに入学して師につくの順序を厭《いと》うて、どこまでも独学で行くの寸法らしい。凝《こ》り出すとこの男も寝食を忘れる性質《たち》で、力持のお勢さんが来ても脇目もふらない。
 力持のお勢さんも、この人にはなんだか畏敬《いけい》が先に立つと見えて、お給仕の時も冗談が一ついえないで堅くなってい
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