がの米友も、誰を呼びかけて、何をいおうとの心も失せ、参宮道の真中の榎《えのき》の大樹の下に立つと、何かいい知れず悲しくなって、その大樹に身を寄せて面《おもて》を蔽《おお》うているうちに、いつしか、しくしくと泣いている自分を発見しました。
「君ちゃんがいねえ……ムク、ムクの野郎もいねえ……ムクやい、ムクはいねえのかよう」
と米友は、声立てて呼んだけれども、手拭を後ろに流し、黄八丈の着物に、三味線を抱えたお君の姿も出て来ない。そのあとに、影身のように附添うたムクも現われては来ない。間の山の盛り場では、提灯篝《ちょうちんかがり》の火が空を焦《こが》して、鳴り物の響きが昔ながらに盛んに響いて来るのに、自分の見たいと思う人と、聞きたいと思う声だけは、一つも現われて来ない。そこで米友は、
「ムク……おいらは今、間の山に来ているんだぜ、誰も迎えに出て来ねえのかい?」
 米友は天を仰いで号泣しようとする、その大榎の樹の枝に、一団の青い火が、上ろうとして上らず、下ろうとして下らないのを認めました。
「あれが魂というものだな」
 米友は身を躍《おど》らして、その青い一団の光を捉えようとする途端に、大風が吹いて来て、その光を大空へ吹き上げたから、ハッとして眼を醒《さ》ますと、自分の転寝《うたたね》をしていた身体の上へ、誰かふわりと掻巻《かいまき》を着せてくれた人がありました。
「風邪《かぜ》を引きますよ」
 障子のところに立っている女の姿を見ると、米友はムックリと起き直って、
「お玉さん!」
「ホ、ホ、ホ、どうもお気の毒さま、つい、お邪魔をして済みませんでした」
「玉ちゃん、いいからお入り」
「はい」
「ここへお入り、話があるから」
 米友は、ほとんど猛然として起き上って来て、お玉の袖を取りました。
「こわい人――この人は――」
 お玉は笑いながら、米友に引かるるままに、袖を引かれて来ました。

         六

 女軽業の親方のお角さんは、お気に入りのお梅ちゃんを連れて、浅草の観音様へ参詣の戻り道です。
「梅ちゃん、何ぞお望み、今日はなんでも好きなものを買って上げるから……」
「お母さん、千代紙《ちよがみ》を買って下さいな」
「千代紙――? ほんとにお前も子供だねえ」
 お梅の子供らしい望みを笑いながら、お角は雷門跡から広小路へ出ました。
 お角もこのごろは、痛《いた》し痒《かゆ
前へ 次へ
全176ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング