で来たのでもないが、小癪《こしゃく》に障《さわ》ってたまらぬゆえに、この次第に及んだのだ。おのおの方、ここに取って押えた弁慶は贋物《にせもの》であるぞ」
といいました。
「贋物……それはきまってらあな」
と大勢の中から叫び返した兄《あに》いがあります。芝居の弁慶で贋物でないのは無い。本物の弁慶なら、そう容易《たやす》くは捉まるまい。芝居の弁慶を捉まえて、これは贋物だと宣言することほど、それは非常識な侍である。そこでいったん静まりかけた客や舞台が、また沸き出して、本物の弁慶を見たければ五条の橋へ行くがいいのなんのと、犇《ひし》めき合っているのを仏頂寺が、
「弁慶をやっているこの役者が贋物なのだ、市川海老蔵とあるのは偽りだ、海老蔵どころではない、蟹蔵《かにぞう》にも及ばない木《こ》ッ葉《ぱ》役者が、こうして吾々をごまかして歩くのだ。おのおの方、その番付の文字をよく御覧なさるがよい、その海老《えび》の老《び》という字は土《ど》という字だ、エビ蔵ではない。エド蔵だ。本物の市川海老蔵という役者は、市川総本家の大将で、芝居道の方では王様だ。こいつは擬物《まがいもの》のエド蔵。諸君、だまされてはいけない」
 持って来た番付を押開いて、高く掲げて看客《かんきゃく》に警告したのは大いに利《き》き目があって、すべての看客がおのおの携帯の番付を照らし合わせて見ると、なるほど、老《び》と土《ど》の違いがある。老と土とは、つまりエビ蔵をエド蔵にする。なるほどと合点《がてん》したところへ畳みかけて仏頂寺が、
「おのおの方……芝居を見るにも、裏と表を透《すか》して見なければいかん、ただ、逆《のぼ》せ上ってわいわい見ていてはいけない。この弁慶が……この弁慶なる者が、一人で舞台の上をのさばり廻っているところのみを見て、弁慶というもののその時の心持を見ないような奴は、芝居を見ないがよろしい。さいぜんも見ていれば、富樫に咎《とが》められて、金剛杖で主人義経を打ち据える時の、あの打据え様《ざま》はどうだ。苟《いやし》くも弁慶ほどの者が、主《あるじ》たるものの身体《からだ》に鞭を当てねばならぬ心中の苦痛はいかばかり……外目《よそめ》には強く打つと見せて、腹の中は血の涙で煮え返る、その心の中は千万無量だ。それをこの弁慶は、ここにいる弁慶なるものは、ただもういい心持でブン擲《なぐ》って、俺はこれほど強いぞ、とい
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